旅したくなる端史 (和紙編7)
石川・福井・岐阜三県に跨(またが)る豪雪地帯に聳(そび)える白山(はくさん)(標高2702m)は、古来、日本三霊山に数えられ、白山比(しらやまひめ)神社は全国に2,700余の末社を従える。残雪深い白山山系に発する数多(あまた)の清流は幾筋かの谷合いから流れ出て福井平野の手前、今立町辺(あた)りで合流し、末には日野川や九頭竜(くずりゅう)川の名を得て日本海に注ぐ。その美しい山々に囲まれた今立(いまだて)町の大滝など5集落が五箇(ごか)とよばれ、真白な紙の花が咲く越前(えちぜん)和紙の里である。
今立は、現在、JR北陸線武生(たけふ)駅から福鉄バスで約20分。車なら、北陸自動車道武生ICか鯖江(さばえ)ICから地道を10分ほど走れば着く。私は、十余年以前、仲間と永平寺や一乗谷(織田信長に滅ぼされた朝倉氏城下の発掘遺跡)を訪れた帰路、今立に立ち寄った。その際、建物は古いが数十人の従業員が生き生き立ち働く作業所も含めて大小様々の工房が競う手漉き和紙産地の活力を垣間見て、再訪の機会を念じた。
数年前にその機会を得た折、和紙を育(はぐく)む清流、中でも清冽(せいれつ)な水で知られる白山山麓を訪れるに相応(ふさわ)しいルートを探した。以前、合掌造(がっしょうつくり)で有名な岐阜県白川郷から白山スーパー林道を経て加賀温泉郷へ下りた際、姥(うば)ヶ滝(日本百名瀑)や弘法池の水(日本百名水)など白山山系の水巡りは試みていた。今回は、岐阜から長良(ながら)川を遡(さかのぼ)り、郡上八幡(ぐじょうはちまん)(郡上踊りと清流の城下町で有名)、白鳥町(阿弥陀ヶ滝は日本百名瀑)を経て碧の湖や深い渓谷が連なる九頭竜川を下り、大野市(御清水は日本百名水)から山越えの県道34号線に入った。時は早春で、峠に近い宝慶寺(一般には無名ながら、永平寺に次ぐ曹洞宗道場として現在も多数の雲水が修行)付近からは道も一段と細く、残雪が一人旅の行く手に不安を覚えさせたが、先の龍双ヶ滝を目的に前進を決断した。陽当たのよい峠付近は意外に残雪が少なく、蕗の薹(ふきのとう)が路傍に芽吹いていた。さらに進むと、突然道端に現れた滝は落差60mに加えて横幅があり、名瀑百選に選ばれるのも頷(うなづ)け、早春の飛沫に心を洗われた。
越前和紙の発祥については、応神天皇5世の孫男大迹王(おおどのおう)(後、大和に迎えられ継体天皇となる。6世紀前半在位)が越前の豪族だった頃、大滝の岡本川の川上に美姫(渡来人か?)が現れて紙漉技術を教えたと伝えられる。以後、住民は姫を紙祖神川上御前(かわかみごぜ)として岡太(おかもと)神社(※)に祀り、現在も全国唯一の紙祭りを絶やさない。この伝承を信ずるなら、越前紙の起源は、紙の公式伝来(日本書紀。推古朝の西暦610年)より1世紀早いことになる。しかし、現在の福井県に相当する若狭(わかさ)や越前(えちぜん)は、大陸・朝鮮半島とは日本海を一跨(ひとまた)ぎの位置にあり(今でも、朝鮮半島や大陸からの漂着物は多い)、人間と共に現代地場産業にもつながる紙漉・機織(はたおり)・金属加工など先進技術が上陸した。ここから近江を経由して大和朝廷に至るルートは、北九州経由より遙かに至便である。事実、奈良・平安時代に、高句麗(朝鮮半島北部にあった国)、渤海(ぼっかい)(高句麗滅亡後、その故地から中国東北部にあった国)や新羅(しらぎ)(古代朝鮮を最初に統一した王朝)からの外交・貿易使節団を応接する迎賓館は能登の福浦(ふくら)や若狭の敦賀に置かれた。
余談を続けるなら、若狭の地名は古代朝鮮語で「往来」を意味するとも言われ、丹後・若狭・越前・近江には新羅(しらぎ)との深い関連を伝える遺跡・伝承・地名は多い。地名でいうなら、今立は平安時代初期に丹生(にゅう)郡から分割した「今立て(新設)の」郡の意味であるが、丹生は辰砂(しんしゃ)の製錬地である。辰砂は絵の具(朱色)や丹(水銀)の原料で、丹は仏像・仏具などの金渡金(めっき)に用いられ、黄金文化が栄えた新羅からの渡来人との関連を示唆する。
その後、越前和紙は、平安時代に「打ち雲」「飛雲」といった装飾を施した雁皮紙(がんぴし)が貴族に愛用されるなど順調に発展した。鎌倉以降の武家社会でも、越前楮(こうぞ)紙は「檀紙」「奉書紙」といった公用紙の最も優れた産地とされ、室町幕府、信長や秀吉、江戸幕府からも御用紙を漉く特権を与えられ、越前藩の保護も受けた。江戸時代後半になると、三椏(みつまた)を原料とした日本最初の藩札(越前藩発行の紙幣)も漉かれ、越前紙は順風満帆だった。
近代に入り、幕府や越前藩の保護を失った越前紙は、民需中心の他産地と異なり、一挙に危機に陥った。この危機に当たり、新政府が近代経済社会に適応した紙幣発行を目的に設けた大蔵省抄紙局の紙工に応募して上京する人も多かった。その後、日本の紙幣や証券用紙発行に用いられる「黒透かし」技法の基礎を完成した越前出身紙工の技術を評価し、政府は紙幣用紙を越前でも漉くことを認めた。しかし、ようやく越前の紙漉が復興した明治中期、五箇村の谷に2度にわたり大洪水が襲い、村は荒廃、出村する者も続出した。
横山大観・下村観山・竹内栖鳳・小杉放庵……平山郁夫画伯などの名前は有名だが、これらの画家が活躍できた一因は越前和紙との出会いであることを知る人は少ない。
実は、日本画自体も明治維新後、一時は西洋画に圧倒されていた。従来の線描から、陰影と彩色を加えた日本画の革新を材料面で可能にしたのが、一度は壊滅に近い打撃を受けた越前和紙である。日本画と越前和紙は時に格闘とも言える厳しい交流の末、再生した。
(※)延喜式記載の古社(式内社)。権現山山頂に大滝神社(式内社)と本殿が併存し、麓の里宮(江戸後期の社殿建築の粋を集めた本殿は国重要文化財)では合祀。
旅したくなる端史 (和紙編8)
近代になって、何度か危機を迎えた越前和紙は蘇(よみが)り、今も越前今立(いまだて)には日本と世界の画家・版画家・工芸家から注文が集まる。その栄誉は紙幣や証券用紙を開発した越前出身の抄紙局紙工、苦境の村に残り伝統技術を守った紙漉き達の努力に負う。しかし、併(あわ)せて、文化の伝統保持と発展を願う心で結ばれた学者、画家や版画家、紙匠・和紙問屋・工芸印刷業者などの間で交わされた熱く厳しい共同作業があったことを忘れてはならない。
明治中期から大正期にかけて、越前和紙郷は二度にわたる水害により荒廃疲弊していた。そうした中で、優れた郷土史家牧野信之介や東京で工芸印刷所を営んでいた島連太郎などは、郷土の紙の優秀さを中央の学者や画家に紹介し、販路開拓を支援した。
当時、線描中心の伝統的東洋画に西洋画の技法を加えた新技法を模索していた意欲的な日本画家ー横山大観、富田渓仙、竹内栖鳳、玉井玉泉画伯などーは、思い通りの彩色可能な画布を求め、従来の絹布に代えて和紙の発色に注目した。大正11年に横山大観が描いた「牡丹」は彩色の妙を絶賛されたが、これは岩野平三郎(初代)が、越前和紙の技法を基に三種の原料(楮・三椏・雁皮)の混合割合を微妙に変えながら苦心の末に漉いた奉書紙に描かれた。この成功により、画家達から注文や要望が相次いで寄せられ、今立でも表具仕立(ひょうぐしたて)に便な台紙と本紙が容易に剥がせる料紙を漉くなど画家の要望に応えた。しかし、和紙産地は他にも多く、前田青邨(せいそん)などは土佐和紙に大作を描いた。
越前がライバル産地に決定的な差をつけたのが、古代中国の麻紙(まし)再現の成功である。大正後期、滋賀県史の編纂を託された牧野信之介は、古刹(こさつ)石山寺で千数百年にわたり収集された経典を調査する内、今まで見たこともない種々の紙と出会った。その中から、古代中国で漉かれながら技術が消滅した幻の麻紙を京都帝大教授内藤湖南の指導で選び、教授秘蔵の敦煌石窟から発掘された写経の断片とともに故郷越前に送り技術復活を勧めた。その難事業を見事に成功させたのも、初代平三郎である。
麻紙の復活は、内藤博士とともに当時の史学界の二枚看板だった黒板勝美東京帝大教授など学者から、また、大観などの日本画家から絶賛された。なかには、麻紙と出会って、西洋画から日本画に転向した小杉方庵のような画家もあった。また、麻紙再生の経験は抄紙術を進歩させ、伝統技法を基にしながら多様な和紙を生み出した。
大正15年、大観から一辺5.4m四方(18畳(じょう)敷)という未曾有の和紙の注文を受けた平三郎は作業場の大改造から始め、3ヶ月休業という犠牲を払って漉き上げた。完成した紙に大観と下村観山が合作した「明暗」(関東大震災から復興する東京を象徴)は多くの人々に感動を与え、同時に、越前和紙の評価を世界に響(とどろ)かせた。さらに、昭和天皇即位式には屏風(川合玉堂などが画作)や祝儀用紙を宮内庁から命ぜられると、日本画家などの今立詣(もうで)が列をなした。こう書くと、越前今立の紙漉が容易に芸術家に受け容れられたように思えるが、個性豊かな芸術家各人(それぞれ)が自己の画筆や作風に合う紙を求め、厳しい注文・要求をする。それに対して紙匠が苦心しながら応えたことから信頼関係が生まれたが、見方をかえると、越前の紙漉技術が近代日本画の発展を可能にしたとも言える。
私が今立町大滝を訪れた折り、気さくに応じて頂いた岩野市兵衛紙匠(九代。国の重要無形文化財保持者=人間国宝)が漉く越前生漉奉書(きずきほうしょ)は、芸術性と数百回の摺りに耐える比類無い強靱(きょうじん)さから顧客には国内外の著名版画家が多い。50人の授業員を抱える日本最大の和紙製紙所を経営する岩野平三郎紙匠(三代。福井県指定無形文化財)は、自らも古来の「打雲(うちぐも)・飛雲(とびくも)・水玉」の技法を伝承するとともに、初代平三郎の開発した「雲肌麻紙」など日本画家たちの信頼あつい紙を漉き、また作業場では絵画用や室内装飾用など巨大紙も漉いている。福田忠雄紙匠(県指定無形文化財)は、平安時代以来の「墨流(すみなが)し」と呼ばれる美術工芸紙を漉く技法を一子相伝で伝える。
今立の製紙業者は家族経営を中心に約80を数え、女性も含めた伝統工芸士指定の紙匠も多い。それら紙匠は伝統的な奉書・鳥の子・襖紙などから古典複製用紙や世界一大きな紙、美術・工芸用紙、証券・株用紙に至るまで特色ある和紙を漉き、また、今立町が主催する公募展のほか世界と日本各地の展覧会に出品して技を磨く。このため、東山魁夷や平山郁夫画伯など現代の日本画の巨匠たちも越前和紙にあつい信頼を寄せる。
町民の積極性は、観光客受け入れ態勢にも表れている。大滝・岡太(おかもと)神社から古い街並を下ると、若者をも意識して洒落た雰囲気を醸す「和紙の里通り」が造られている。噴水や音楽ベンチが設けられた広い通りには、土産物屋・喫茶店・蕎麦屋などが並び、周囲に越前和紙の博物館「和紙の里会館」、江戸時代の紙漉家屋を移築した中で伝統工芸士が紙漉を実演する「卯立(うだつ)の工芸館」、訪問者が紙漉体験をできる「パピルス館」が配されている。
車で1時間圏に永平寺(曹洞宗本山)、一乗ヶ谷(信長に滅ぼされた朝倉氏の夢の跡)、さらに白山山麓に多い清冽な滝巡り(その一つ、一乗滝で小次郎は「つばめ返し」を編み出したとされ、高善寺は生家)と併せて、今立の訪問をお勧めする。
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