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和紙の歴史(とても詳しい)

この論文は、佐野晃夫氏の手によってまとめられた個人的な研究文です。多くの先輩和紙研究家の孫引きが引用されております。(引用文献を細かく明記しておりませんが何卒ご容赦下さい。)様々な歴史情報が網羅された労作です。和紙の歴史に興味のございます方は是非ご一読下さい。

  「襖と障子の伝統文化」

 ■第一章   ふすまと和紙の伝統文化
(1)紙の発明とその伝播       
 (一)紙以前の紙
  筆と墨
  
記録のため文字が発明され、次いで文字を記すための筆記具が作られた。紙よりもはるかに早く筆と墨が発明されて
いる。
  
通説では、筆は古代中国の秦の始皇帝の時代(BC221年に中国統一)に、蒙恬が発明したとされている。     
               しかし、近年の研究により、今からおよそ三千五百年も前の殷の時代(BC1600年
頃成立)に、すでに筆や墨が使用されていたと言われている。遺跡から出た甲骨文にも筆を表す象形文字がみられ、
長沙地方で楚の古墳から、竹の軸にウサギの毛を糸で巻き、漆で固めた筆が発掘されている。
  
墨は、黒い土や石墨(グラスファイト)、また炭を水で練るか溶かせば容易に作ることが出きる。このような原始的
な墨は、筆よりも遙かに古く、紀元前三〇〇〇年の新石器時代には知られていたという。
  
墨は、炭素の粒子が細かいほど筆記には都合がよい。現代のような油煙の煤を用いるようになったのは、周の宣王(
BC827即位)の時代に考案された。 
  明の時代の『天工開物』には、墨の作り方が詳しく図解入りで残されている。
  煤は膠で丸く固め、必要に応じて適当な濃さに溶いて用いるようになった。
  
墨をする硯は、すでに漢の時代から使用されており、岡と池を持った現代のような形になったのは、唐の時代のころ
といわれている。 
  
 絹と紙  
  紙が発明される前から、「紙」という文字はもともと中国にあった。
  紙以前の「紙」はもともと絹の一種を指していたようだ。
  紙の「糸」偏は「生糸を併せて一本に撚った形」、旁の「氏」は砥で砥石のように平らなことを意味している。
  
紙が発明される以前の書写材として、主として竹簡や木簡に筆墨で記録され、また紀元前七〜六世紀以降には、「紙
」という絹帛(細かく織った絹)などに記された。 「紙」は貴く、役所の記録には竹簡や木簡が使用されたが、重
く嵩張るため不便であった。「紙」と呼ばれた絹帛 
は、一匹(約五〇×九m)の値段が米六石に相当したという程、貴重なものであった。
  
古代中国では絹を作るときに派生する質の悪い繭から、絮という真綿をとり、防寒用に利用した。この絮を作るには
、絹の繊維くずを竹筐の中で水につけながら、竹竿で叩いて晒して作った。この時に、簀の上に微細な繊維が薄い膜
状に残り、それを乾燥させると、薄いシートになる。    これを漢代には、「紙」と呼んで書写材料として利用
した。紙の一歩手前のものではあるが、原料がクズ繭とはいえ高価な物で、大量に作ることは不可能であった。  
 
  日本語では紙をカミと読むが、その語源には諸説ある。
  
紙の発明以前は、ガバノキ(樺)の樹皮に書いた(様々の樹皮や獣皮を利用した)ので、カバがカミに転じたという
説と、竹簡・木簡の「簡」はカヌ、で音の変化でカミとなったとの説がある。
  いずれにしても、ものを書き記すために、さまざまなものを「紙」として利用してきた。
  
農業が発達して、多くの人々が定住して村落を形成して暮らすようになると、それなりの組織を必要とし、その組織
の維持のためのさまざまな記録が必要となっていく。記録のための文字の発明と同時に、さまざまな書写材料が試行
錯誤で利用されていった。特に国家の成立は、組織的な記録の保存が重要な命題となったはずである。
  
「紙」の開発には、多くの時間と研究投資が必要で、試行錯誤が繰り返されて開発された「紙」は、時として国家の
戦略物資として、製法が秘密にされて、重要な交易商品となった。
  パピルスとパーチメント
  古代の西方世界での書写材は、初は粘土板であった。         
 湿った粘土板に、葦の茎で楔形の文字を刻みつけた。乾燥すると極めて固くなり、保存性に優れていたが、やはり
重く嵩張るために保管に苦労したであろう。
  やがて、古代エジプトで、パピルスという優れた書写材料が発明されて、広く用いられるようになった。 
  
パピルスは、紀元前二千五百年頃のエジプトで、文字の使用と共に使用され始め、古代エジプトの重要な輸出品で、
貿易の通貨の役割も担っていた。                   
パピルスは多年生の草本で、食料、船の構造材、縄、書写材など様々に利用された。書写材としての「パピルス」は
、水草のパピルスの根に近い部分の髄を取り出し、薄い片にして水に漬けて叩き、長さを揃えて縦と横に並べて圧搾
脱水し、乾燥させた後、表面を動物の牙などで擦って滑らかにして使用する。今日的な感覚では、紙というよりも原
始的な布のようなもので、欠点としては文字が書きにくいことと、脆いことであった。  
 片面しか記入できないことと、また曲げに弱いため三〇四方のものを二十枚くらいつないで五mほどの巻物とし
て利用した。
  「volume(巻物)」は、パピルスの巻物のラテン語表現を語源とする。
 
 「bible(聖書)」は、ギリシャ語でパピルスに文字を書いたものをbibloと表現した事を語源とする。そして、
紙を意味するpaperがパピルスを語源としていることは周知のことである。これらのことは、古代世界でいかにパピ
ルスが広く利用されたかの証左である。
  
パピルスの製造と流通は、エジプト王朝の管理下に置かれ、書写材のパピルスの製法は秘密にされていた。まさに国
家の戦略物資としての地位を占め、それはサマルカンドで盛んに製紙が行われるようになるまで続いた。
  
古代における優れた書写材を開発したエジプトは、プトレマイオス一世(BC283没)の時に文明の象徴として、古代
最大のアレクサンドリア図書館を作った。パピルスの書物は、天文、科学、文学、歴史、信仰、慣習などあらゆるる
分野に及んでいる。息子の二世フィラデルフォスがその充実に努め、蔵書は数十万巻といわれている。エジプト文明
を彷彿とさせる壮挙であった。      
 ところが、アナトリアのペルガモン(現トルコ共和国ベルガマ)におこった王朝のエメネウス二世(在位BC197〜
159)は、アレクサンドリア図書館の司書長を引き抜き、エジプトに対抗して二十万巻の書物を蔵する大図書館を作
った。新興国のペルガモン王朝は、世界に文明国家としての存在を誇示したのだろうか。
 エジプトはアレクサンドリアを越える図書館の出現を喜ばず、パピルスの輸出を停止した。
  
このために、エメネウス二世は、パピルスよりも優れた書写材料の開発を命じて、生まれたのがパーチメント(羊皮
紙)である。        
 羊の他に牛や鹿等の獣皮を、水に漬け石灰乳に浸して不要な毛や肉を取り除き、木枠に張り付けて乾燥させ水洗い
後、軽石で表面を磨いて平らにし、最後に白色の鉱物の粉をすり込み不透明化した。
  
羊皮紙は、パピルスに比べてはるかに書きやすく、また強靱で冊子本を作るのに適しており、さらに保存性にも優れ
ていた。このため、紙が普及するまでは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教などの聖書に使用され続けている。 
           
 ただとにかく高価で、バイブル一冊を書くのに羊五百頭分の皮が必要であったという。 羊皮紙のパーチメントの
名称は、ペルガモン王朝の名に由来している。
  貝多羅 (ばいたら)       
  インドでは古くから、ターラという樹の葉を書写材料に用いていた。
  
ターラは棕櫚の葉に似たパルミランヤシ、コリハヤシの若い扇子状の葉を、幅七〜八、長さ六〇ほどの長方形に
整え、束ねて乾燥させる。乾燥したターラに、墨壺と糸を用いて五本の線を付け、先のとがった筆で葉の両面に文字
を彫りつける。そこに油にすすを混ぜたインキを流し込み、熱した砂でふき取ると、文字の部分だけが黒く染まる。
その各片をパットラといい、サンスクリットでは葉を意味し、漢訳では「貝多羅」「貝葉」とした。
  
貝葉は、一つの穴を開けて、紐を通してまとめられる。二つの穴を設けて、ノートのようにめくれるようになってい
るものあった。
  
玄奘三蔵(602〜664)が、はるかな天竺へ行ったのは、中国で紙が発明されてから五百年以上もたってからであっ
たが、インドから持ち帰った経文は、貝多羅 を重ねて、両端を版木で挟み縄で結んだものであった。
  玄奘三蔵がもたらした経典は五百二〇夾 
であったと記されているが、「夾」とは、はさむという意で、貝葉の束を意味する。
  
むろん、その頃にはインドにも、紙は商品として渡っていたはずだが、まだ製紙法は伝えられておらず、高価で一般
的ではなかったようだ。
  或いは、聖なる仏典は、昔ながらのターラに書くべきだという、保守的な考え方が強かったのかも知れない。
  中国古代の紙
  中国では、紙の発明以前に、「紙らしきもの」は作られていた。   
  
最初の紙らしきものの発見は、一九三三年に新彊のロプノールの近くの前漢時代の烽火台跡から発見されている。同
時に出土した木簡に記年があり、紀元前四九年の表記がある。このロプノール紙は一九三七年の戦火で焼かれ現存し
ない。
  この紙は「麻紙」で、紙質がきわめて荒く紙面にまだ麻の筋が残っていたという。
 その後、紀元前百四〇〜八七年頃の前漢時代のものと推定される「麻紙」が一九五七年に西安市で発掘された。四
川大学で化学検査をしたところ、大麻と少量の苧麻が含まれていることが判明した。           
 さらにこれより古いとされる麻紙が、一九八六年天水市の古墳で出土している。これは「放馬灘紙」と呼ばれてお
り、埋葬者の胸部に置かれていた長さ五・六、幅二・六の小さな紙片で、前漢時代の紀元前一七九〜一四一年頃
のものと推定されている。これは現在知られている中国で出土した最古の紙で、地図らしき物が描かれている。  
          
  中国で発見されているこれらの古代の紙は、むろん世界最古の紙である。
 ただこれらの紙は、麻の繊維から出来ているが織物に近く、銅鏡などを包むのに使用された「包装紙」で、この上
に文字や絵を書くにはあまり適さないものであったようだ。
  
ただ、もともと紙の用途は多用途で、物を書き記したり絵を描いたりするだけでなく、物を包む、汚れや水分を拭き
取る、水やその他の溶液を濾過する、ものに張るなどさまざまな用途がある。

・・・・・・

 日本の伝統文化と和紙の歴史 前文2
(二)紙の発明と伝播
  紙祖蔡倫伝一
  
紙が発明されたのは、後漢時代の一〇五年に蔡倫が、汎用性が高く従来品に比較して廉価な「書写材料に適した紙」
の製法を発明して、時の皇帝であった和帝に献上したことに始まるとされている。(『後漢書蔡倫伝』)
  
当初は蔡倫が発明した紙を特に「蔡侯紙」といった。それまでの「紙」は、絹の一種を指していたために、区別する
必要があった。
  中国では、大麻、苧麻は古代から利用されている。          
 麻の繊維は固いために、水にさらして叩いて、繊維をほぐす必要があった。絹も繭を水につけてさらして作る。ク
ズ繭から絮という真綿をつくる時に、簀の上に残る薄いシート状のものを「紙」と呼ばれた事は前に述べた。
  
蔡倫は、これらの事から紙の製法を思いついたのであろうと推測されている。それまでの「紙」は、絹の生産過程で
派生するもので、原料が限定された高価もので、多用することができない。
  
そこで、大麻、苧麻や麻のボロ、漁網などの繊維を木灰汁で煮て、水でさらして細かく砕き、簀で漉くという方法で
紙の製法を考案したと思われる。書写材に適した紙を漉くには、繊維を細かく砕くのが最大のポイントで、西方から
伝来していた石臼を利用したであろう。「蔡侯紙」以前の「紙らしきもの」は、表面が粗く、麻の繊維が筋状に残っ
ており、書写材としてはやや不適な織物に近い状態であった。          
  
中国での相次ぐ古代紙の出土が、蔡倫を紙の発明者(『後漢書蔡倫伝』)の地位から、紙の改良者、製紙法の確立者
へ変更させた。         
 しかし、古代の「紙らしきもの」から書写材に適した、安価で量産できる今日的な紙の製法を確立したという偉大
な業績と始祖の名は揺らぐことはない。
  
蔡倫は、紙の発明当時に後漢の都洛陽で尚方令という、天子の御物を作ることを主な任務とした官職に就いていた。
役職柄、宮廷の物づくりが仕事であり、費用を惜しまず原料の調達ができ、試作を繰り返すに都合の良いポストにあ
り、さらに仕事に忠実で研究心の旺盛な蔡倫の人格が、世界に先駆けた偉大な製紙法の発明につながっていった。 
蔡倫は、宮廷関係の役職者であるため宦官であったが、宦官のなかでも幹部級の官職であった。俸禄は六百石で、ほ
ぼ県の長官と同格であったという。
  紙の発明は、文明や文化の情報伝播と交流に、果たした役割は計り知れない程大きな、世界的な発明であった。
  ただし、発明当初は当然ながら国家的な戦略物資として、製法は秘密にされて、商品としてのみ輸出された。
  
世界の三大宗教といわれる、仏教、イスラム教、そしてキリスト教も、紙なくしては世界宗教にはなり得なかったと
思われる。
  また、宗教によって、紙と製紙法が広く世界に伝えられたともいえる。
  
玄奘三蔵が天竺(インド)から持ち帰った経典はすべて貝葉に記されていた。これを紙に写経することで、広く仏典
が紹介され、我が国にも伝えられた。
  紙祖蔡倫伝二
  
紙の発明者として名高い蔡倫は、宦官であったが故の、後宮の政治抗争事件に引き込まれ哀れな最期を終えている。
  長い中国の歴史で、多くの人々が去勢されて宦官に仕立てられた。
  
世界史でも中国にしかなかった宦官の制度は、去勢されて後宮に仕える官職で、主に罪を犯して宮刑(腐刑ともいう
)に処せられたものが用いられた、との暗いイメージがある。事実、宮廷という密室の中で、政治的な暗躍を図り、
私腹を肥やし事実上の政治権力を壟断した宦官も多い。
 しかし、数多い宦官には歴史に名を残した優秀な人材も多い。     
 『史記』で名高い司馬遷は、自己の良心に忠実な発言のため、武帝の怒りに触れて屈辱的な宮刑に処せられている
。
  
宦官の歴史で、優れた宦官の双璧とされているのは、蔡倫と明の鄭和とされている。明軍が元軍を撃破して各地を制
覇した時、将軍たちは明の皇帝に献上する美少年を物色し、十二歳の眉目秀麗の鄭和を献上品に選んだという。
  
鄭和の家系は、雲南のイスラム教徒の有力者で、チンギスハーンに従って功績があったという。敗戦国の奴隷のよう
な立場で、皇帝への献上品にされてしまったのだろう。鄭和は去勢されて明の永楽帝に仕え、後にその才能を認めら
れ、七回に渡るアラビヤ・アフリカまでの大航海の総司令官を勤めた。
  
さて、蔡倫のことである、字は敬仲、現在の広東省に近い湖南省南部の桂陽の出身である。去勢の経緯は記録に残っ
ていないが、やはり少年の頃に去勢されたと推測されている。
  後漢は幼帝が相次ぎ、皇太后の摂政が多かった。           
 蔡倫が仕えた和帝には、異母兄がいた。和帝の父の章帝の正妻の皇太后には実子がなく、和帝を実母から引き取っ
て育てた。皇太后は和帝を即位させるために、すでに皇太子であった和帝の異母兄の劉慶の実母宋貴人を陥れ、劉慶
を皇太子の座から追放した。
  
この宮廷内部での政権争いの事件に、必然的に宦官である蔡倫が利用された。権力者の皇太后から事件の事実調査を
命じられた蔡倫は、宋貴人に不利な結論を出さざるを得なかった。
  章帝 
が死んで、和帝が十歳で即位すると、和帝の育ての親の皇太后の天下となった。蔡倫は和帝即位後、宦官の幹部級の
中常侍に昇進している。後にさらに昇進して、尚方令 に任命され、その職務のなかで紙の発明を行うことになる。
 話は複雑に展開して行き、蔡倫はその出世の契機ともなった事件の因果で、時代が代わった時に、自刃に追い込ま
れるという哀れな最期を迎える事となる。権力欲の強い皇太后の摂政の下に、皇太后の兄達が実権を握り、政治を私
物化していった。あまりの乱脈ぶりに、和帝もやがて危機感を抱き、逆クーデーターを起こし、皇太后の一族を粛正
した。このクーデーターに力を貸したのが、皇太后により皇太子を廃された異母兄の劉慶 
の清河王であった。                          
 蔡倫が紙を発明して和帝に献上するのは、このクーデターの十三年後の事である。紙の発明のあと直ぐに、和帝が
二十七歳の若さで死ぬ。和帝の子供は皆幼児期に死亡しており、やむなく和帝の異母兄の清河王であった劉慶 
の子で十三歳の劉祐 
が即位する。これが安帝である。安帝が即位したことが、蔡倫にとって不幸な結末になった。安帝はまれにみる暗君
で、後漢の衰亡は彼に始まるといわれている。先帝の皇后が亡くなり、安帝の親政となると、まず手がけたのが四十
年以上も前の祖母であった宋貴人の怨みを晴らすことであった。
  
かくして、安帝の祖母を陥れた本人が居ない以上、犠牲にされたのは当時の事件調査報告者の役割を演じさせられた
宦官、蔡倫に他ならない。
  サマルカンドの製紙
  
西方で最初に紙漉き場が作られたのは、七五一年中央アジアのサマルカンドであった。唐軍とイスラム勢力のアッバ
ース朝がタラス(カザフスタン共和国)で戦って、唐軍が破れたときの捕虜に、紙漉きの職人がいて伝えたという。
  
西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から一四〇年以上も経過している
。
  またこの時代の唐では、製紙法が秘密にされていたのかも知れない。
  サマルカンドでは、桑、苧麻などを製紙原料に使用して紙が漉かれた。
  
しかしサマルカンドでは、桑科の植物が少なかった。そこで、麻のボロの混入量を次第に増加させ、ついにはボロの
みで紙を漉く技術を確立した。
  国際商人のソグド人
  
ペルシャ語で紙のことを「カーガス」という。アラビア語でもインド語でも紙のことをカーガスといった。カーガス
は、中国語の穀紙(Gu-zhi)が訛ったものとされている。紙を西方に商品として伝えた国際商人のソグド人が、紙
をカーガスと呼んだ。
  
中央アジアで、シルクロードを経由した東西交易に重要な役割を演じたのが、国際都市サマルカンドであり、サマル
カンドを中心に、世界を股にかけて活躍したのがソグド人であった。                
 ソグド人は、もともとソグディアナ地方にいたが、アレキサンダー大王の遠征によって、各地に四散させられるこ
とになった。四散したソグド人は、国境を越えて連携しつつ、自らの才覚で国際商人として活躍したのである。
 イスラム帝国のアッバース王朝は、アラブ人の政権であったが、中央アジアでの住民は、イラン系、トルコ系が多
かった。          
  
サマルカンドは、イスラム文化によって育まれ、ソグド人の東西交易の活躍によって、当時の世界でもたぐいまれな
文化都市を形成していた。
  コーランと紙
  
イスラム世界はイスラム教によって統一されている。         イスラム教の聖典は、『コーラン』である
が、アッラーの啓示を受けたマホメットの時代には、「天上に書板としてあり」地上には存在せず、マホメットによ
って語られた。
  
マホメットの死後、神の啓示としての地上の『コーラン』の編纂がカリフ(マホメットの代理者という意味)によっ
て行われた。さまざまな書写材に書かれた『コーラン』も、イスラム圏の拡大により、まちまちの方言で表記された
。   当時は、パーチメントに書かれた『コーラン』が多かったようだが、音吐朗々と読唱されねばならない『コ
ーラン』が方言では都合が悪く、何度かの結集と統一が行われた。     
 このような事情で、結集統一された聖典『コーラン』の配布が必要であった。このような時期に、サマルカンドで
紙漉きの技術が伝わったのであった。
 サマルカンドでは、最盛期には一つの川筋に三百もの水車があり、そのうち百四十は製紙用のものであったといわ
れている。
  
サマルカンドで製紙が盛んになるにつれて紙が普及し、紙に書かれた聖典『コーラン』は誰もが手元におくべきもの
とされた。
  ダマスカス紙
 サマルカンドで改良された、ボロだけで紙を漉く技術が、ソグド人によって、イスラム圏の世界最大の文化都市バ
クダッドへも七九四年に伝えられた。
  
さらに西進して、ダマスカス(シリア)でも製紙が始められた。ダマスカスは、もともとバクダッドが建設されるま
では、アッバース朝の首都であった文化都市であった。                      
 このダマスカスで漉かれた紙は品質が良く、地理的条件からもヨーロッパへ輸出された。ヨーロッパでは、紙の代
名詞としての「ダマスカス紙」の名で流通していた。製紙法は、国際商人ソグド人によってイスラム圏の各地に伝え
られて、エジプトでも九〇〇年代には、パピルスがすべて紙に取って代わられた。
  アフリカの地中海沿岸を西進して、一一〇〇年にモロツコのフェズで製紙が開始されている。
  ヨーロッパへの伝播
  地中海を渡ってヨーロッパで最初に紙が漉かれるのは、スペインのサティバで一一五〇年頃とされている。
  
この頃のヨーロッパでは、ギリシャ・ローマ教会が完全に分裂して、ローマ教皇が絶頂期を迎えた時期であった。十
字軍の遠征が始まり、都市の勃興期で、それにつれて商業が活発となり、貨幣経済が進展した時代であった。   
           
 フランスのエローでは一一八九年、イタリアのファブリーノで製紙工場が造られたのは一二六四年であった。ヨー
ロッパ全土に製紙が広まるには、およそ三百年の歳月を必要とした。
  そのごフランスは、中世における最大の製紙国となった。
  ヨーロッパでの製紙の伝播速度は、イスラム圏に比べてはるかに遅い。
  紙の普及は、宗教と大きな関わりを持っている。
  
イスラム教では、個人が直接絶対神のアッラーに祈る。イスラム圏での聖典『コーラン』は、誰もが手元におくべき
ものとされた。従って紙の需要も大きかった。中世のヨーロッパでは、カトリツク教会が支配していた。
  
キリスト教の聖典『新約聖書』は、キリスト教団の成立後、その布教の長い歴史の課程で、多くの人々によって書き
つがれたものである。
  中世カトリックでは『聖書』は教会が管理した。             
 後のプロテスタントと違い、カトリツク教徒は、すべてを教会にゆだねている。神の教えは教会を通じて伝えられ
、神への祈りも教会を通じて行われる。
 個人として、神と直接対話を行うことは許されず、神の代理の司祭を通じなければならなかった。このような中世
ヨーロッパでは、キリスト教徒は個としての確立が遅れ、必然的に紙の需要も神職者に限られたのであろう。
  西方世界に紙を伝えたサマルカンドも、一二五八年モンゴル軍によって完全に都市を破壊されている。

・・・・・・

 日本の伝統文化と和紙の歴史  前文3 
  (三)紙の伝来と国産化
  紙漉きの伝来                                
  
製紙の日本への伝来は、地理的条件からヨーロッパへの伝来に比較して五〇〇年以上も早く、飛鳥時代の六一〇年に
高麗僧「曇徴」によって紙漉きと墨の製法が伝えられた。(『日本書紀』)
  
「・・・高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。且た能く彩色及び紙墨を作り、併せてみず臼(水
車を利用した臼)を造る。」
と、ある。                             
 高麗王が、先進技術者の二人の僧を日本に派遣したのである。
  
水車を利用した石臼は、紙漉きの原料の麻のボロや麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ためのものであろう。
  
石臼とは碾き臼のことである。二枚の円形の石を重ねて擦りながら回す、いわゆる「ロータリーカーン」のことで、
西南アジアで小麦の栽培が普及し、小麦を粉にするために発明され、長い時間をかけて改良された。       
              
 米食圏では碾き臼は必要でなかった。稲は脱穀し、木臼と杵でつくだけでよかった。小麦圏では、粉にするために
石臼が発明され、さまざまの試行錯誤がなされた。当初はむろん人力で小型の石臼を動かし、次第に牛や馬の力で大
きな石臼を回した。そして中央アジアで、河の流れを利用する水車で石臼を回す水臼が開発された。小麦圏には一気
に広まったと考えられる。そして、シルクロード経由で中国にも伝えられ、紙の発明とともに、原料の麻の繊維の叩
解に利用されるようになったと考えられる。
  
余談ながら、この水の流れを動力とした水臼の発明は、紙の発明にも劣らない偉大な発明であった。水臼は、人類が
手にした最初の自然の力を動力として使った機械といえる。マルクスは『資本論』のなかで、
  「すべての機械の基本形は、ローマ帝国が水車において伝えた。」
  「機械の発達史は、小麦製粉工場の歴史によって追求できる。」        
と、述べている。
  書物の初伝
  
日本への製紙技術伝来以前に、むろん紙そのものは書物としてもたらされているはずである。          
             
 応仁天皇十六年(285)に百済の王仁が『論語』十巻と『千文字』一巻を伝えたのが、日本における書物の初伝と
されている。(『古事記』)ところが、『千文字』の作者は、応神天皇よりも百年も後の人で、太安万侶の『古事記
』の内容には誤りがあり、はっきりしないが、四世紀から五世紀には書物として、紙が伝来していると推測されてい
る。
  
西方への製紙法の初伝は、戦時捕虜という予期せぬ出来事で、しかも日本への伝来から一四〇年以上も経過している
。
  またこの時代は、製紙法が秘密にされていたのかも知れない。
  
すると、高麗王が、製紙技術者を日本へ派遣したのは、希有の暁光であったと言わざるをえない。高句麗王朝は古く
、蔡倫が紙を発明する以前から成立しており、後漢の王朝と親交があった。このために、最初に製紙法が伝えられた
と考えられる。飛鳥時代は、朝鮮半島から仏教やさまざまの技術や文物などがもたらされ、人の交流も盛んな時代で
あった。このような状況が、製紙の伝来を、西方世界よりいち早くもたらすという事になったのであろう。
  図書寮
  
紙漉きの技術の伝来から一〇〇年程してから、本格的な紙の国産化が始まり、天平九年(737年)には美作、出雲、
播磨、美濃、越などで紙が漉かれるようになった。(『正倉院文書』)
  
大宝律令(701年)によって国史(『古事記』『、『日本書紀』)や各地の『風土記』の編纂のために図書寮が置か
れ、紙の製造と紙の調達もその職務に定められていた。図書寮では34人の人員の内4人が紙漉きの造紙手で写書手
が20人いたと記録されている。更に図書寮の下に、山背国(山城国)に「紙戸」と呼ばれる平民の紙漉き専業家を
置き、租税を免除して官用の紙を漉かせた。この他にも各地で紙を漉かせて、これを付加税として徴収していた。
  
六一八年に随を滅ぼして唐が建国され、その一〇年後には唐は全中国を統一している。第一回目の遣唐使は、六三〇
年に派遣されている。
  
ついでながら、唐の影響で初めて年号を定めて、大化元年としたのが、六四五年であった。いわゆる「大化改新」で
ある。
  
遣唐使は多量の漢籍や仏典の輸入を伴い、これらを写経して諸国に配布して、仏教の流布を行うため国分寺.国分尼
寺が建立された。        
 天平十一年(739年)頃には写経司という役所が設けられ、写経事業の推進のために紙の需要がさらに拡大してい
った。
  
『図書寮解』宝亀五年(774年)の記録によると、紙の産地として、美作(岡山北部)、播磨、出雲、筑紫、伊賀、
上総(千葉)、武蔵(東京,埼玉)、美濃、信濃、上野(群馬)、下野(栃木)、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長
門、紀伊、近江の十九カ国に及んでいる。
  
昭和三十六年に、平城京や長岡京跡の発掘調査が行われ、四十点の木簡が出土して話題を集めたが、その後の発掘の
進展で数万点の木簡が出土している。平城京遷都が七一〇年で、長岡京への遷都が七八四年であり、紙はかなり普及
していたはずなのに、この時代の遺跡から夥しい木簡が出土している。
  
ただ出土している木簡は、一簡に書かれたもので、それを紐でしばる册の形の物はないようである。木簡が紙より優
れている点は、雨に濡れても破れる事がなく、紙より丈夫で価格が安い。商品の流通に伴う荷札などの用途には、木
簡の方が機能的に優れている。また心覚え程度の記録なら、手身近な木簡の方が、安くて便利であったのであろう。
  国産化初期の紙
  
最も古くから漉かれた紙は、麻紙で原料は大麻(Hemp)や苧麻(Ramie)の繊維や、麻布のボロや古漁網などから漉か
れた。麻は繊維が強靱なので、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦りつぶしてから漉いた。漉きあが
った麻紙は、表面が粗いので紙を槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いたりして表面を平滑にし
た。つぎに空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布する。さらに墨のにじみ(遊水現象
)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行う。取り扱いが難しく、次第に楮に取って代わられ、一時期は消
滅してしまった。
  
麻と同様に繊維が強靱で、しかも取り扱いが易しい、増産に適した穀紙と呼ばれる楮を原料とした紙が次第に普及し
ていった。穀は梶の木のことで、楮の木とも書き、楮と同属の桑科の落葉喬木で、若い枝の樹皮繊維を利用する。抄
造は麻紙と同様に煮熟して漉いた。繊維が長くて丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずに
そのまま用いられた。紙のきめや肌がやや荒いが、丈夫で破れにくく、衣食住のさまざまな分野に応用されて使用さ
れていくことになる。
  
『正倉院文書』の神亀四年(727年 奈良時代)の写経料紙帳に、麻紙、穀紙、染紙が使用されたとある。    
                  
 同じく天平十九年(747年)の条には、斐紙の名が見られる。斐紙は雁皮紙のことで雁皮を原料とした紙で、繊維
が短く光沢があり、きめの細かいつやのある紙になる。
  
さらに天平二十年には檀紙の名が見える。檀は真弓とも書き、主に弓を作る材料に利用されたニシキギ科の落葉亜喬
木で、若い枝の樹皮繊維を利用する。檀紙は陸奥紙とも書き、みちのくのまゆみ紙といわれ、厚手で白色の美しい紙
であった。  
 彩色加工紙                             
 『正倉院文書』天平勝宝四年(753年)には植物で染色された、五色紙・彩色紙・浅黄紙などの十数種類の色紙と
、金銀をさまざまにあしらった、金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙などの十数種類の加工紙の名がある。
  この他に『正倉院文書』には多くの紙の名が見える。           
 原料名を示す麻紙・斐紙・穀紙などの他に、紙屋紙・上野紙・美濃紙などの産地名や固有名詞を冠するもの、加工
法を表す打紙・継紙(端継紙)、形と質を表す長紙・短紙・半紙・上紙・中紙、他に用途を示す料紙・写紙・表紙・
障子料紙(明かり障子ではなく間仕切り総称としての障子にはるもの)、染料の名を示すもの、色相を示すものなど
実に多くの紙の名が見える。
 図書寮が置かれ、官庁の紙の需要増大に対応して、年間の造紙量を二万張(幅二尺二寸長さ一尺二寸)と規定し、
さまざまの造紙の工夫がなされるようになった。官営紙漉き場である図書寮とその付属の山城国の五十戸の紙戸が指
導的立場で、写経用紙をはじめ夥しい色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが抄造され、華麗な天平文化の一翼を担っ
た。
 世界最古の印刷物                         
 この時代の特筆すべき事項として、宝亀元年(770年)に、百万塔陀羅尼経が完成している。(『続日本紀』)
  この百万塔陀羅尼経が、現存する世界最古の印刷物とされている。
  
印刷の方法は、陽刻に彫った版木に墨を塗り、その上に紙を乗せて摺ったと考えられている。逆に、紙を下にして捺
印したという説もあるが、版は陽刻(版が凸状のもの)である。
  
捺印の歴史は古く、古代オリエント、ギリシャ、ローマ、中国でも印章として使用された。紙以前の印章の版は、す
べて陰刻(凹状に溝を彫ったもの)であった。紙が使用されるようになってから、四〇〇〜五〇〇年後に陽刻が登場
したといわれている。
  
木版が初めて歴史に登場するのは、随の文帝十三年(593)で、天下の書物を集めて、木版で刷るように命令したと
いう。
  書籍の出版が盛んになるのは宋の時代(960〜1127)で、その末期(1045年頃)に、畢竟  
が陶製の活字を発明したとされている。その後、木製活字が開発され、後代の明になって鉛や銅などの金属活字が作
られるようになっている。
  陀羅尼は、サンスクリツトの写音で、仏前で唱える呪文のことである。
  
百万塔陀羅尼経が刷られた紙は、穀紙または黄麻紙などさまざまで、虫喰いを防ぐために黄檗汁で染められている。
図書寮やその付属の山城国の紙戸だけでの抄紙能力では不十分で、各地の紙漉き場が動員されたであろう。  百万
塔陀羅尼経は一行が五文字で統一されており、紙幅が4.5Cmで長さは陀羅尼の種類により一定していないが、一五
〜五〇ほどである。  
 百万基の小さな三重の塔は、中国渡来のロクロを使用した木製の塔で、陀羅尼の摺り本が納められている。この百
万塔は、法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺など名だたる十大寺にそれぞれ十万基づつ分けて納められた。
完成するのに六年の歳月を費やしている。
  
十大寺に分置された百万基の内、現存しているのは法隆寺の四万数千基と、他に博物館や個人所蔵のものが若干残っ
ているだけである。
  
百万塔の一大事業は、称徳天皇が、藤原仲麻呂の乱を平定したあと、乱に倒れた多くの人々の鎮魂と、国内平和を祈
願して発願された。
  
称徳天皇の名は、再即位したときの名で、最初の即位は孝謙天皇で、女性の天皇として有名である。また彼女が征伐
した藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫であり、彼女の母方の祖父も同じく藤原不比等である。つまり血のつながったい
とこを粛正したのである。このような複雑な政治的な背景の下に、百万塔の一大事業が発願されたのであった。

・・・・・・

   (2)和紙の伝統文化
 (一) 紙屋院と和紙の成立
  流し漉きの確立
 平安時代に入ると、山城国の紙戸が廃され、大同年間(805〜809年)に「紙屋院」という(「しおくいん」とも
読む)官立の製紙工場が作られ、日本固有の製紙法である「流し漉き」の技術が確立されている。        
  
 紙を漉く時に、揺すりながら紙の層を形成する方法で、中国の静置して脱水する「留め漉き」と異なり、「ネリ」
と呼ばれる植物の粘性物質を使用する事に特徴がある。    
 紙料(叩解の済んだ原料)を水に分散して、とろみのような粘性の物質を加える。ネリを加えることにより、水の
粘性があがり、簀の子からの脱水がゆるやかになり、繊維が簀の子の上に均一に並び、薄い紙を漉くことが出来る。
さらに、簀の子へのくみ取りが数回に渡ってもうまく層が重なり合い、厚みも自在に調節できる。まさに製紙の画期
的な技術革新であり、名実ともに和紙の誕生であった。「ネリ」はノリ,タモとも呼ばれ、ニレの皮やサネカズラの
茎の外皮などから作られた。のちに、黄蜀葵の根や糊空木の皮などから作られた。
  
ネリを使用して漉きあげると、漉きあがった紙を順次積み重ねて、水を絞り乾燥させたあと、一枚一枚に剥がせると
いう特性がある。そして乾燥して完成した紙には、「ネリ」の影響が全く残らない。
  紙屋院
 紙は文化のバロメーターと言われるが、まさに平安時代は紙の需要が急速に拡大した時代であった。
  
これらの需要に対応するため、「図書寮」と直属の「紙屋院」が造紙技術の中心となって、各地の紙漉きを奨励育成
して四十四カ国に及び、紙を生産しない国は数カ国に過ぎなくなった。
  
藤原時平選『日本三代実録』に、清和天皇崩御の後(880年)、東宮のご息女藤原朝臣多美子が、帝から賜った御筆
手書を集め、「漉き返し」をして法華経を写書して敬慕供養を行ったとある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』で、反故紙
を使って漉く薄墨色紙はこの事例をもって初めとしている。当時はむろん脱墨技術はなく、「漉き返し」を行うと薄
墨色紙となった。
  
美濃国には延喜以来、官設の紙漉き場「紙屋院」があり、図書寮から役人が派遣され、色紙を抄造して、毎年京都へ
送らせて宮中で用いられるようになった。
  
一条天皇の時代には、宮中で色紙を好んで用いるようになり、その製法も染紙や加工紙などさまざまなものが作られ
、天皇の宣命料紙として、紅紙、緑黄紙などが用いられたと、『本朝世紀』正暦五年(995年)の条にある。
  堺紙屋紙という名が史料に見られる。
 紙屋紙とは、本来奈良朝の「紙戸」、平安朝の「紙屋院」という官立の漉き場で抄造された紙の称で、紙の品質の
高さの証明でもあった。ところが、平安末期の頃には、「紙屋院」では主として「宿紙」と称された、漉き返し紙を
抄造するようになつていた。「宿」は、旧・久の意であり反故紙の漉き返しの意味に使われ、浅黒くてむらもあり薄
墨紙・水雲紙ともいわれた。そして、いつの頃からか漉き返し紙の宿紙を紙屋紙と称するようになっていた。堺紙屋
紙は、宿紙である。かって輝かしい名であった紙屋紙は、古紙再生の漉き返し紙の宿紙の代名詞となっていった。
  
この背景には、律令体制の衰退とともに、荘園で盛んになった紙漉きに原料が使用されて、図書寮では原料の確保が
年々難しくなった事による。
  宿紙の代名詞となった紙屋院は、中性の南北朝期に廃止された。
  
文治元年(1185)平氏が壇ノ浦で滅び、源氏の鎌倉幕府が成立して、きらびやかで消費的であった王朝文化から、粗
野ながらも質実剛健な武家社会が台頭した。紙の消費層も、公家・僧侶から武家・土豪に広がり、実用的な丈夫な紙
が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃紙などが流通した。
  紙作りの主流は、荘園や守護地頭の下に移っていった。
   (二)装飾経と絵巻物
   装飾経
   
奈良時代は仏教を「鎮護国家」の基本に据えて、その普及に努め、写経事業も大規模に進められた。これらの写経料
紙は、染めて使うのが主流で、主に黄染紙であった。紙を染めるのは、聖なる教典を書き写すため、より美しくする
ためと、虫害を防いで長く使用するためであった。
  
より荘厳さを持たせるために、紫紙に金銀泥で書いた装飾経も作られるようになった。この紫紙金字経などから、金
銀箔や金銀泥で装飾することがはじまった。このように染めたり、金銀箔をちりばめる加工は、天平文化の中で花開
いた。
  
奈良時代の紫紙金字経に対して、平安時代には紺紙金字経が多く作られた。詠草料紙にも紺紙に金銀箔を散らし、金
銀泥で書いた者があるが、写経料紙にはもっと細かい技巧が施され、金泥で界線を引き、あるいは金箔を細く切った
切金を界線としたものもある。
  
きらびやかな装飾経の最初といわれ、紫紙、紺紙などに金銀泥で書き、また金銀の切箔・野毛・砂子を散らし、下絵
には蓮華をはじめいろいろな草木を配して壮麗な装飾を施したものが装飾経である。
  
平安時代には、権勢を誇った貴族の手で写経が進められ、浄土信仰と相まって盛んになり、競って装飾経が作られた
。此の当時の日記には、写経荘厳、荘厳華美、珍重無極等の文字が示されている。
  現存する装飾経で著名なものは、大治元年(1126)藤原清衡が発願して
つくつた紺紙金銀泥一切経で、銀界線を引き、金字と銀字を一行おきに交書きしている。
   絵巻物
  文字ではなく主として絵を描いて巻物に仕立てたものが絵巻物である。
  
絵巻物形態はの源流はインドであり、中国経由で日本に伝えられた。それらは小判のものであったが、和紙の製紙技
術の向上にともない、日本では大判の絵巻物が多く描かれた。
  
王朝文化とともに発展した大和絵は、屏風絵などとして残っているものはほとんどなく、絵巻物として今日まで残っ
ている。
  絵巻物は、紙を横に長くつないで、情景や物語を連続して動的に展開する絵画形態である。
  
日本での絵巻物の源流は、奈良時代に作成されたもので、仏教説話を主題としている。平安中期からの絵巻物は、王
朝文学の物語、説話、歌などの絵による展開を主流とするようになった。内容を述べる詞書とそれに対する絵を交互
に配する独特の様式を生み出した。
  
物語絵巻は、『枕草子』『伊勢物語』『源氏物語』『栄華物語』などの文学作品を、独特の表現力で活写している。
特に『源氏物語絵巻』は、濃厚な色彩できらびやかな貴族の生活を描き、家屋は屋根を省略した吹き抜け屋台で描か
れており、当時の住まいの状況や建具の使用状況などが一望できる貴重な資料となっている。優美な草書体の詞書と
絵画を交互に配し、その料紙は紫・紅黄・青などの淡い間色に打雲やぼかしを加え、金銀箔や野毛、砂子を撒き、さ
らに松や柳を描き添え、梅花や蝶などの図をあしらった、素晴らしい装飾が施されている。文学と絵画と書道そして
料紙の工芸美とで作り上げた総合芸術作品といえる。 
  中世には、歌仙絵巻、戦記絵巻、そして寺社の縁起や僧伝の説話絵巻などが多く作られた。
  (三)物語文学と和紙
  みちのく紙
  平安時代には、漢字を使用する男性は楮の穀紙、かな文字を使う女性は陸奥紙(檀紙)を使用したという。
  『源氏物語』には、
 「みちのく紙の 厚肥たるに 匂ひばかりは 深からしめたまへり」
  『枕草子』には、
 「白き清げなるみちのく紙に いとほそうかくべくはあらね 筆して文か  きたる」
  と、記されている。
 平安後期以後の檀紙は、ダンシと読まれ、原料も楮を原料とした紙で、天平時代の檀紙と別ものであるという説が
あるが、別の説では、もともと楮を原料とした木綿を原料とした、真木綿紙が転訛して「まゆみ紙」となったという
。
  江戸時代中期の高名な学者でる新井白石が、宝永二年(1705)に著した『紳書抄』に、
  
  「壇紙は陸奥より始まりける也。俗に引合と云ふは是也。男女の心を
    通ずる玉章に此の紙を用ゆる故に引合とは申すとかや。」 
とある。玉章とは手紙のことである。 
  また、文化二年(1805)刊の谷川士清著『和訓栞』に、
  「ひきあはせ  
壇紙をいふ。男女の志を通はす艶書に此の紙を用いしより名づくといへり西土の書に松皮紙と見えたり。」
とある。松皮紙という名は、壇紙の表面に繭のような荒くてつやのあるしわが波打っているところから呼ばれた別名
で、鎌倉時代に中国(元)へ輸出され、中国では松皮紙と呼ばれた。
  伊勢貞丈の『貞丈雑記』弘化二年(1845)t刊には、
  
「引合と云う紙は 昔は有て今はなき紙也。色うす黒き紙なる故 うす墨紙とも云ふ。また、陸奥国より出し故 み
ちのく紙とも云ひし也。」
とあり、また『源氏物語』にみちのく紙とあるのは引合のことであり、うす墨紙も、『源氏物語』須磨の巻などに出
ていると書いている。そして、うす墨紙には、引合と宿紙の二種類あるとしている。
 さらに明治七年刊の『大言海』には、
 「古へ、檀ニテ製セリトゾ。今ハ、楮ナリ」              
とあり折衷案をとっている。
  『和漢三才図絵』には檀紙について
 「厚く白くして...松の皮 繭の肌ににる」
 「大高・引合・繭紙・松皮紙などの数名あり。」               
とある。
  楮紙ながら穀紙とはちがった紙肌であるため、わざわざ檀紙と命名した可能性が高
い。雁皮紙のことを、わざわざその肌合いから鳥の子紙という感性からきたものと思われる。
  かな文字と女流文学
  
平安初期には、一般に手紙は漢文で書かれていたようである。しかし、漢文では十分に意思を伝達することが困難で
あり、漢字を借用して大和言葉を写し、漢文を大和言葉風に読み下した、いわゆる万葉書きが文章にも使われるよう
になった。さらにこれが仮名書きに発展して、主として宮廷の女性たちに愛用された。恋文では漢文では思いのたけ
を十分表現できず、読み手が女性の場合が多く、仮名書きの文が多用された。京都の青連院には、藤原為房の仮名書
きの手紙が残されている。
  平安時代の女性は、手紙は薄い斐紙、すなわち薄葉の色紙を二枚重ねて仮名文字で書いた。
  仮名書きの手紙では、男も女も末尾には「あなかしこ  あなかしこ」と書いた。
  
正式の手紙は一枚の紙(全紙)をそのまま用いて、縦に書いたので竪文といい、また全紙を横に二つに折って、折り
目を下にして書いた折紙もあった。折紙を二枚に切り離した切紙、これを横に継いだ継紙、さらにこれを巻いた巻紙
もあった。 
  
平安時代は、藤原一族の栄華のもと太平の世が永く続き、絢爛たる貴族文化が花開き、国字としての仮名文字が生ま
れ、江戸時代以前で最も著作物の多い時代である。物語文学では、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保物語』、
『落窪物語』そして『源氏物語』など世界最古で世界に誇る多くの名作が著された。また日記文学も隆盛で、『土佐
日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記、』、『更級日記』など多くの名品が残され、随筆として特筆される『枕
草子』、『古今和歌集』に代表される多くの和歌集などもこの時代の作品で、国文学史的にも瞠目すべき時代であっ
た。また多くの物語文学に付随して「源氏物語絵巻」に代表される多くの絵巻物が描かれた。      
 紙をすく                         
  
紙を抄造することを、古来「造紙」といっていたが、平安時代には「紙をすく(漉く)」と表現するようになった。
 『正倉院文書』には「漉く」の文字は見あたらないが、『延喜式』では簀を「紙を漉く料」と注記している。  
              『延喜式』は五〇巻にわたる律令の施行細則で、平安初期の禁中の年中儀式や制度な
どを記したもので、官庁用紙や造紙に関する規定も盛り込まれている。
  『源氏物語』には、
 
 「唐の紙はもろくて、朝夕のお手ならしにも、いかがかとて、紙屋の人を召して ことあげ言たまひて、心ことに
清らかにすかせたまへるに」
と、ある。
  造紙を「紙を漉く」と言い換え、「唐の紙はもろくて・・・  
」と表現するまでに、先進の唐よりも上質の「和紙」が漉けるようになった。

 (四)  王朝文化と詠草料紙
  うすようの紙
  
雁皮を原料とした斐紙がこの頃重宝され、薄様、中様、厚様の三種類があり、時の太政大臣平清盛に薄様を納めたと
の記録がある。
  
雁皮は日本独特の製紙原料で、和紙特有の流し漉きによる高度な技術により、特に薄様に特徴がある。男性がおもに
懐紙として厚肥えた楮の檀紙を愛用したのに対し、女性は薄様の斐紙を愛用した。斐紙はのちに鳥の子と称されるよ
うになった行く。         女性が中心となって築いた王朝文化を象徴する典雅な紙としてもてはやされた
。
 『宇津保物語』の初秋の巻に、
 「こともなく走り書きたる手の、うすように書きたる・・・」
 『 枕草子』には、
 「お返しは、紅梅のうすように書かせたまふが」
などとある。
  
薄様の斐紙(雁皮紙)は、華麗でいてこまやかな平安王朝の女性たちの、優美なかたかなもじの流麗な曲線で、墨筆
を美しく走らせるのには最高の紙であつた。
  
薄様の紙はしばしば違う色の色紙を重ねて用い、「梅かさね」「萩かさね」「紅葉かさね」などと称して、色合いは
なやかに薄様に歌などつややかに書きしるし、季節にふさわしい花などを添えた。
  
平安貴族たちは常に懐に紙をたたんで入れていた。懐紙は今日のハンカチのような用途の他に、菓子を取ったり盃の
縁をぬぐったり、即席の和歌を記したり、貴族の必需品であった。                      
             
 懐紙は、「ふところがみ」また畳んで懐に入れるから「たとうがみ」等と称した。のちには和歌などを正式に詠進
する詠草料紙(和歌を書き記す料紙)を意味するようになり、男性が檀紙を女性が薄様を用いるのがならわしとなり
、正式の詠草料紙には色の違う薄様を二枚重ねて用いた。春には、上が紅梅、下が蘇芳(紫蘇の色)の「紅梅がさね
」夏には、上が白、下が青の「卯の花がさね」に和歌を書き記したという。           
 詠草料紙          
  
詠草料紙(個人の和歌、歌集用の紙)には、染め紙のほかにさまざまの技巧が施されて、抄紙段階でのものに打雲、
飛雲、墨流しなどがある。あらかじめ漉いた雁皮紙の上に、青や紫に染めた繊維を細長く横に流して、漉槽の中で下
辺にゆっくり打ちあてるようにすると、染めた繊維が雲の形に漉かれていく。
  
雲に対して、地上を流れる水を写したのが墨流しである。墨滴を水面に落として、その上に松脂を落として墨をはじ
き散らせ、これを繰り返して息を吹きかけて、水の流れを表現した墨汁の紋様を、雁皮紙で吸い取つて写す技法であ
る。
  
高度な加工としては、切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの技法を駆使したものがある。切り継ぎは、紙を斜めに切
断し、切り口を少しずらして重ねて糊付けしたものである。破り継ぎは、いろいろの形に破ったを糊付けしたもので
、長い繊維の足が不規則な形を作る面白味を演出したもの。重ね継ぎは、数枚の紙を少しずつずらして糊付けしたも
ので、濃淡に着色した四枚の薄葉紙と一枚の白紙とを用いて、色の濃淡の差を順次重ねると、ぼかし模様になる。
  
この他にも、さらにきらびやかな金銀箔や金銀泥による加工紙など、平安王朝のみやびたさまざまな詠草料紙が作ら
れている
 天台宗の宗祖最澄は、延暦二三年(804)遣唐留学僧として渡航した折り、筑紫斐紙(雁皮紙)二〇〇張りを、日
本の独特のすばらしい紙として、みやげものにして献じている。
 遣唐使が廃止されるようになってから、唐紙も国産化されるようになった。
  
当初、国産化の試みは唐紙の紋様や図案を中国では「花文」とよんでいたものを、とくに詠草料紙の雁皮紙に描き出
すことから始まった。
 唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料)に膠をまぜたものを塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲な
どの紋様の版木で摺り込んだものである。             
 『 大鏡』には、
 「・・・・  黄なる唐紙の、下絵ほのかにおかしきほどなるに・・・・」
とあり、『西本願寺本三十六人家集 』『 元永本古今集』その他にも、雲母摺りのからかみが用いられている。
  三十六歌仙の各家集を集成したもので、最も古く完全に近い姿を保っているのが、
『西本願寺本三十六人家集 』で、昭和の補修を除いた三十七帖が国宝に指定されている。
  『三十六人家集 』は、我が国の国文学史上はむろんのこと、美術史、工芸史の上からも、
総合的に最高の評価を受けている。
  こうして詠草料紙は、ハイカラな異国趣味の紙も用いるようになった。
  
このように、各種の技巧を凝らした華やかな料紙は、奈良時代からの技術が平安時代に王朝文化に育まれて、「華麗
な和紙」は完成の域に達した。   その後は、美術的、工芸的な料紙は、あまり漉かれなくなり、もっぱら実用化
と多様な用途開発の技術に傾斜していった。
  
華麗でみやびた王朝文化に代わって、質実剛健の武家社会が成立し、侘びや寂びの精神を尊ぶ武家文化が根付いてい
った。
  
官立の紙漉き場である「紙屋院」は、全国に紙漉きの技術の指導的役割を果たし、官庁用の紙の調達の役割を担って
きた。しかし、この頃には各地で高度な技術と独自の原料で紙が漉かれ、産地名を冠した紙が、いわばブランドとし
て宮廷でも脚光を浴びるようになり、相対的に伝統を重んじる「紙屋院」の紙屋紙の比重が低下していった。それに
伴い、製紙原料の調達も細り、やむなく図書寮の古経書の漉き返しの宿紙を抄造せざるを得なくなったと推測できる
。平安末期には、官営の紙漉きが時代の役割を終えて衰退し、各地の紙の産地が独自の紙を開発し、普及していく事
になっていく。
  紙の贈り物と礼式
  紙は、生産量の少ない頃は貨幣と同じように扱われ、貴重なものとして
心を通わせる贈り物、敬意や謝意を表す贈り物として、日本人の生活の中に早くから根を下ろしている。
  『枕草子』に
  「白き色紙、みちのく紙など得つれば  こよなうなぐさみて」
とあり、紙を得る喜びを表現している。
  
このような紙の贈答で、王朝時代の公家社会では、心を通わせる習わしとなっていた。このような風習は、公家の日
記に数多く書かれている。
  『御堂関白日記』には、寛弘三年(1006)四月の灌仏会の布施料として、
大臣は五帖、納言四帖、宰相三帖、などと紙を納めたことが記されている。
いまなら布施料は貨幣であるが、貨幣と同じような感覚で納められている。
  このような紙を贈る公家社会の習慣は、中世武家社会では一束一本、一束一巻という形で引き継がれた。
  
『看聞日記』には、永享五年(1433)正月地蔵院で点心のとき、扇と杉原紙十帖を引き出物としたことを記している
。
  
武家社会では、扇一本と杉原紙一束(十帖)をそろえるのが原則とされているが、壇紙・美濃紙・越前紙・甲斐田紙
・修善寺紙などをそれぞれ一束贈ることもあった。
  一束一巻の場合、一巻は緞子が原則であるが、小袖・絹布・縮緬・葛布
なども用いられた。安永六年(1777)刊の木村青竹編『新選紙鑑』には、一束一巻について、
  
「壱帖づつ二つ折りにやりちがえ、十帖重ねて、中を水引にて結び、上に緞子一巻、末広一本を添えて献上する也」
とある。
  水引
 この杉原紙を結んだ「水引」は、諸礼式で広範囲に使用されるようになっていく。
  
水引の起源は、小野妹子が随からの帰国時に、同行した答礼使が携えてきた献上品に結ばれていた、紅白の麻の紐と
いわれる。その後宮廷への献上品は紅白の麻の紐で結ぶ習わしとなった。
  もともと麻紐であつた水引が、室町後期になって紙糸が使用されるようになった。
  いわゆる紙縒に糊水を引いて乾かして固め、紅白あるいは金銀などに染め分けたものである。
  
水引は、慶弔ともに用いられので、紅白だけでなく黒白・藍白のほか、金銀にも染め上げられ、鶴や亀などを造形す
る工芸の素材にも使用されている。
  紙縒は、冊子の綴じ紐や髪を束ねる元結として古くから使用されている。
  
この水引や元結いをつくる原紙は、丈長紙と呼ばれ、『新選紙鑑』には、その産地として越前・美濃・阿波・丹後・
伊予・土佐・日向をあげている。現在では、長野県飯田市が特産地となっている。
  同じく礼式に使用する紙に折形がある。
  
昔は贈り物をするときに、目録や進物を紙で包み畳む礼式があり、お祝いの赤飯に添えるごま塩包み、香包み、金包
み、扇包み、のし包みなどそれぞれに紙の折り方が決められていた。吉事には二枚、凶事には一枚で折るという決ま
りもあり、この礼式を折形という。
  
時代により、流儀により折形は違っていたが、包み紙は大高壇紙、奉書紙、美濃紙、半紙などが、その格式によって
使い分けられた。
  
室町幕府には、政所に所属する職名に、折紙方というのがあった。鎌倉幕府の進物奉行・贈物奉行、宮廷の進物所に
相当する職名で、贈りものの事ことをつかさどつたが、それに添える折形が重視されていたことから此の名がある。
平安時代からの先例がだんだん固定して、室町時代には小笠原礼式などが生まれ、折形が贈る人の心を表す礼式とな
った。
  
そして折形の包み紙には、次第に彩りを添え、文様を描いたりするようになった。その一つは絵奉書紙で、肉筆の絵
を描き添えていたが、後にこれが木版刷りで量産されるようになり、近世には小間紙、千代紙などに発展した。

・・・・・・

  湿気と日本家屋

日本の気候は、夏の高温多湿が特徴の一つであ。古代以来蒸し暑い夏をいかに過ごすかに悩み、住まいにさまざまの
工夫をこらしてきた。

  吉田兼好の『徒然草』に
  
 「 家の作りようは 夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる
       暑きころ わろき住居は堪えがたきことなり 」

とある。日本の住まいは、木と草と紙で構成される和風建築を育み、独特の湿気の日本文化を育てた。
  木造住宅が発達したのは、木材に恵まれているという条件と、何よりも湿気の調節がきくことの意味が大きい。
  高床式の構造に、茅葺きの屋根を高くし、庇を長くし、泥壁に畳、そして木製の建具に和紙を貼っている。これら
はすべてが自然の素材で、湿度が高いときには湿気を吸収し、湿度が低いときには湿気を放出する調湿機能を持っている。
  建物が大きくなり、屋根が瓦屋根になると、室内には明かり障子、ふすまや衝立、屏風などをを配置する。これらには
和紙が貼られ、湿度、温度の調節を行っている。
  これらの和紙にはいずれも植物繊維(主成分はセルロース)が原料で、紙自体が多孔質構造で表面積が非常に大きく、
水分の吸収脱着を自然に行っている。
  しかも障子やふすまは、開け放すことで解放空間ができ、家中を風が吹き抜ける。
 また障子やふすまで仕切り、屏風や衝立で囲めば冬でも暖かく過ごせる。和紙の保温性は想像以上で、紙衣(紙子と
も書く)や紙衾(紙でできた寝具)として衣料の代用としても用いられたことでもわかる。


  ふすま障子の誕生

  障子という言葉は、もともと隔ての意で、屏風・衝立・御簾・など間仕切りのの総称であった。
  これらの間仕切り障子に、絹布・麻布・葛布などを張り、その上から仏画・唐絵を描いた。平安時代からは、大和絵
が盛んに描かれるようになった。
  平安時代の貴族の邸宅の典型は、寝殿造りである。           
 寝殿造りは、大広間様式で構造的な間仕切りがなく、壁面以外の外部への開口部は蔀戸が設けられ、内部は衝立、御
簾、几帳、屏風などで間仕切って使用していた。
  衝立や屏風には、唐錦(綾錦)の幅の広い縁取りが付けられ、軟錦と呼ばれた。屏風はこの衝立障子を縦長にしたも
ので、正倉院の「鳥毛立女屏風」のように、はじめは各扇が一枚ずつ離れていた。その各扇を襲木(押木、縁)で枠を
つけ、革ひもで繋ぎ合わせていた。平安時代に入って、この革紐にかわって紙蝶番が使われるようになり、連続した
広い画面にパノラマ絵が描かれるようになった。 
 正式な請客饗宴や儀礼の時には、母屋と庇の間の柱間に、軟錦で縁取りされた副障子(押障子)をはめ込み、室礼
として使用した。        
 一本の樋(溝)を設けて落とし込んだ、取り外し可能な張り付け壁の副障子が基となって、のちに鴨居と二本の樋
を設けて開閉して通り抜けができる、通入障子(鳥居障子ともいう)が工夫された。いわゆる引き違いの通入障子が、
遣戸(板戸)や襖障子の考案につながった。遣戸は廊下と室内の間仕切りに、襖障子は室内の間仕切りに使用される
ようになっていく。      
  衝立、屏風、張り付け壁、そして襖障子には、当初は麻布、葛布、絹布などが貼られていた。絹布には仏画・唐絵
などの絵付けを行い、平安時代にはいると大和絵も描かれ、軟錦で縁取りされるようになった。       
 絵の達人で大和絵の創始者とされている巨勢金岡が、時の関白藤原基経の以来で屏風に大和絵を描いたという記録
がある。


  からかみの国産化
  
 絹織物は高価であり、紙漉きの隆盛にともない徐々に絹布に代わって紙が貼られるようになっていった。当初は
「唐」からの舶来品の、紋様や図案が雲母で擦り込まれた厚手の「唐紙」が使用された。平安時代に入り、製紙の
技術が格段に向上して、雁皮を原料とした厚様の紙が漉かれるようになって、唐紙も国産化されるようになった。
  国産化の試みは、唐紙の紋様や図案を中国では「花文」とよんでいたものを、とくに詠草料紙の雁皮紙に描き出
すことから始まり、しだいに厚葉の鳥の子にも使用した。
 唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料で、室町期以降は貝殻を焼いた粉末を用いた)に膠をまぜたものを塗
って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で摺り込んだものである。           
  国産化された唐紙は、斐紙(雁皮紙)に「花文」を施したもので、「からかみ」「から紙」と表記された。
  『新選紙鑑』には、襖紙のことを「からかみ」とし、

  「から紙多く唐紙といふ。しかれども毛辺紙にまぎるるゆへ
  ここにから紙としるせり」

とある。
   『八条相国日記』の天政二年十月(1124)の条に、

  「唐紙屏風二帖・・・」

とあり、屏風や襖障子に、からかみが張られるようになった。
  もともと、衝立、屏風、襖障子には絹織物を張り、絵を描きさらに色紙形を押したりしていたが、唐紙の紋様を
厚葉の鳥の子紙(雁皮紙)に写すようになつて、襖障子に愛用されるようになった。
  藤原道長の『台記別記』の久安六年(1150)の条に、

 「正式の座敷の障子には絹を張るべきだが、今は唐紙で代用している。」(意訳)

とある。
  『長門本平家物語』平兼隆被討(1180)の条には、

 「火白くかきたて、からかみの障子を立てたりけるを、細目にあけて・・・」

とある。
  藤原家良(1191〜1264)選の『新選六帖』には、

 「今宵さへ ことしげしとて逢ふことを  違へ遣戸の立てる からかみ」

と詠んでいる。 
 主に絹布を張った襖障子に「からかみ」を張った障子を「からかみ障子」と呼んだ。
 唐紙は、唐から輸入される紙の総称であり、写経用の料紙や、詠草料紙が当初の中心であり、のちに「花紋」
を施した文様絵付けの紙がもたらされている。
 このため国産化された文様絵付けの紙は、「からかみ」「から紙」とひらがなで書き、「唐紙」と区別した。
 さらに鎌倉時代の襖障子の普及と共に、「からかみ」は襖障子の総称に転じていくことになる。


  源氏物語とふすま障子

  『源氏物語』は、紫式部という宮廷の才女によって書かれた、一大長編物語であり成立は一〇一一年頃であ
る。『源氏物語』の中に、

 「開きたる障子を 今少しおし開けて ・・・ こなたの障子は引きたてたまいて」

と、あり、また障子に歌を書き付ける話が何度か出てくる。       
  明かり障子に文字を書くことはなく、襖障子には歌などを書き記すことが行われた。
 当時は、物事を直截に表現しないのが習わしであり、間仕切りはすべて障子と称した。しかしながら、前後
の文章から明らかに「襖障子」の事であることが知れる。『源氏物語』の中には、ふすま障子をありふれた情
景として描いている。この頃になると、貴族や上流階級の邸宅には襖障子がかなり普及していたと判断できる。
『源氏物語』が書かれてから凡そ一〇〇年後の、藤原隆能の描いた「源氏物語絵巻」は、日本最古の絵巻物語
である。家屋はすべて屋根や天井を省略した吹き抜け屋台となっているため、室内の様子が良く分かる。      
  また、平安末期の『餓鬼草紙』『病草紙』、鎌倉時代の『春日権現験記絵』『法然上人絵伝』『一遍上人絵
伝』などの多くの絵巻物に、数多く「からかみ障子」が描かれている。
 これらの絵巻物のおかげで、衝立、机帳、御簾、屏風などの建具の使用状況と、襖障子に大和絵などが描か
れているのも分かる。


  明かり障子

  明かり障子のすばらしさは、壁や遣戸のように外界との遮断をせず、外界の雰囲気を、光と陰で豊かに取り
入れ、住む人に自然との融和の中での安らぎを与えている。
  西欧の住まいは、歴史的に自然や外敵から身を守る堅固な砦の発想に基づき、外部との遮断が基本にある。
居住性よりもむしろシェルターのような安全性の機能が優先されていた。この点が日本の伝統的な和風建築と
の決定的な相違となっている。
  開閉自在の引き違い建具、遣戸とふすま建具の発明は、必然的に明かり障子の発明へと連なっていった。 
                 
 縁側に設けた遣戸は、開閉自在ながら閉めてしまえば室内が暗くなる。冬場でも、明かり採りのためには、
寒くても遣戸を少し開けておかねばならない。冬場の昼間の明かり採りの必要から、明かり障子が発明された。    
 当初の明かり障子は、ふすまと同様に薄絹が貼られたようである。  
 ふすま障子は、組子構造になっており、絹や唐紙の代わりに中様の楮の和紙を片面に貼ることで、採光と
防風,防寒を両立ちさせたと、考えたいが少し回り道をしたようだ。
 明かり障子の発想は、まず遣戸の杉板の代わりに、薄絹を張り採光を果たしたと思われる。
 此の当時の明かり障子は、『平家納経』の図録によると、四週に框を組み、数本の竪桟と横桟をわたし、
片面に絹または紙を貼ったと見られる。 明かり障子も当初は寝殿造りなどの貴族の邸宅に採用され、ふす
ま障子と同様な漆の塗子の障子で引き手には総が付けられていた。 
 今日的な組子桟の明かり障子は、『春日権現験記絵』『法然上人絵伝』など鎌倉時代の絵巻物に数多く描
かれている。
 『平家納経』の太い框と太い竪桟、横桟の明かり障子から、細い組子桟へと改良されている。
 今日の発想から考えれば単純な連想だが、ふすま障子の発明から明かり障子の発明まで凡そ一〇〇年の歳
月を必要とし、平安末期に至った。    
  平安末期の嘉承二年(1107)の『江談抄』に、文書を曝すときに四面に明かり障子を立てると記されている。
  平清盛の邸宅六波羅泉殿は、それまでの寝殿造りとは異なり、建具が多用されている。特に寝殿北庇の外
回りに「アカリショウジ」が三間にわたって使用されている。
 治承二年(1178)の『山槐記』には、六波羅泉殿の寝殿や広庇について、「庇の明かり障子を撤去する」
とか「明かり障子を立つ」などと記されている。
 明かり障子もふすま障子と同様に、障子全面に紙を貼っていた。ところが、風雨の激しいときには、障子
の下の部分が濡れて破れやすい。実際の使用状況を絵巻物で見ると、半蔀戸を釣って内側に明かり障子をた
て、下半分の蔀戸は立て込んだままになっている。このような状況から、明かり障子の下半分に板を張った
腰板つきの障子が考案された。腰高は約八〇pで、ちょうど半蔀戸と同じ腰高となっている。
  南北朝時代の観応二年(1351年)に描かれた、真宗本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』に、僧侶の住房に下
半分を舞良戸仕立てにした、腰高障子が二枚引き違いに建てられているのが描かれている。 
  『徒然草』一八四段には、松下禅尼が明かり障子の破れたところを張り、息子の北条時頼に質素倹約を教
えた話を記している。
 鎌倉時代以降書院造り建築が増えるにつれて、明かり障子が普及していった。『大乗院寺社雑事記』には、
長禄二年(1458)十二月の条に、障子用として厚紙一三○枚を用いたとの記録がある。毎年の歳末には障子
紙を張り替える習わしであった。
  室内を明るくする採光を目的とした明かり障子は、透光性のよい薄い紙が良いが、破れにくい粘り強さが
必要であり、また価格も安い物が好まれる。このような条件を満たす紙としては、壇紙や奉書紙、鳥の子な
どは不適当で、障子紙としては雑紙や中折紙など、文書草案用や雑用の紙を用いた。なかでも美濃紙は美濃
雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても多用され、美濃雑紙が明か
り障子紙の代表として評価されるようになった。 






  (4)鳥の子物語


  (一)鳥の子の由来


  名前の由来

  鳥の子の名の由来については、文安元年(1444)成立の『下学集』では、 「紙の色 鳥の卵の如し 故に
鳥の子というなり」と説明している。  
 また『撮壌集』には、「卵紙」と表記している。同様に「薄様」についても説明があり、鳥の子と区別し
ていることから、鳥の子は厚手の雁皮紙を指していたと考えられる。
  両集ともに厚様の説明が欠けていることから、平安時代から雁皮紙の厚様を鳥の子と呼んでいたと考えら
れる。
  近世の『和漢三才図絵』には、鳥の子に関して            

「俗に言う、厚葉、中葉、薄葉三品有り」

と記して、すべての雁皮紙を鳥の子と呼んでいる。
  鳥の子紙は、主に詠草料紙や写経料紙に用いられ、時には公文書にも使用された。特に表面がなめらかで
艶があり、耐久性に優れた美しいであるため、上流階級の永久保存用の冊子を作るのに好んで用いられた。
  明治期の『大言海』には、

  「楮トがんびトノ皮ヲ原料トシテ、漉キタル紙。今ハ三椏ヲ用イル」

とある。
  近世の正保二年(1645)刊行の『毛吹草』や元禄期の『諸国万買物調方記』『製紙一覧』などによると
、鳥の子の名産地として、越前の他に摂津名塩、近江小山、和泉天川と周防があげられている。明治初期の
『貿易備考』には、近江の桐生、出雲の意宇の名をあげている。このほかに伊豆・美濃・土佐も雁皮紙の産地
として知られているが、「鳥の子」の紙名は用いていない。


  雁皮紙

  斐紙と呼ばれていた雁皮紙は、特にその薄様が平安時代に貴族の女性達に好んで用いられ、「薄様」が通り
名となっていた。さらに平安末期には美紙と呼ばれるようになっている。男性的な楮の穀紙や奉書紙に対して
、肌合いが優しくきめの細かい雁皮紙は、詠草料紙として愛用された。平安末期には、取り扱いが難しく手間
のかかる麻紙が作られなくなり、楮の穀紙や雁皮紙にとって代わられ、雁皮紙も特に薄様が主流となっていた。
この雁皮紙が鳥の子と称されるようになるのは、南北朝時代頃からである。
  足代弘訓の『雑事記』(嘉暦三年(1328)頃に成立)に「鳥の子色紙に法華経を書写した」との記述があり、
『愚管記』の延文元年(1356)の条に、「料紙鳥子」とあり、さらに後崇光院の『看聞日記』永享七年(1431)
の条にも「料紙鳥子」の文字が見える。
  平安の女性的貴族文化の時代から、中世の男性的武士社会にはいって、厚用の雁皮紙が多くなり、薄様に対し
てこれを鳥の子紙と呼んだ。             
  鎌倉末期から鳥の子の名称が一般化し、近世に入ると雁皮紙はすべて鳥の子紙と呼ぶようになった。


 (二)  越前鳥の子


  紙王というべきか

 『宣胤卿記』の長享二年(1488)の条に「越前打陰」(鳥の子紙の上下に雲の紋様を漉き込んだもので、打雲

紙ともいう)、文亀二年(1502)の条に「越前鳥子」の文字が記されている。「越前鳥子」の文字は他の史料
にも多くあり、室町中期には越前の鳥の子が良質なものとして、持てはやされるようになっている。
  元来、公式の文書は奉書紙などの楮紙が用いられ、鳥の子紙が公式文書に使用されることはまれであった。
 『雍州府志』には、
 
 「およそ 加賀奉書 越前鳥の子、是を以て紙の最となす」

とあり、『和漢三才図絵』には、越前府中の鳥の子は、

  「紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」

とある。近世にはいると、「薄様」の名も消えて、雁皮紙をすべて鳥の子と呼ぶようになる。

 ガンピ(ジンチョウゲ科の植物)の生育する北限は加賀で、都で鳥の子の名声が上がるにつれて、加賀や越前
では限られた原料で、優れた技術にさらに磨きをかけて良質な鳥の子を生産して名産地としての名を築いた。
  材料難からガンピに近縁の三椏や楮を混ぜるようになり、現在では三椏を原料として漉かれている。


  越前美術紙

  江戸時代には、透かし紋様紙、漉き込み紋様紙(抜き紋様)、置き紋様紙(漉き掛け)あるいは皺紋加工など
の技術が工夫されている。
 これらの地紙の技法と装飾加工を組み合わせたものが、いわゆる越前美術紙であり、漉き模様ふすま紙という。
  越前では、早くから大判の間似合紙 をつくっていた。間似合紙とは、襖障子の幅に間に合うという意から
名付けられたもので、幅三尺二寸、であった。長さは時代により異なり、襖に対して八段貼り、六段貼りと徐々
に大きくなり、明治十六年頃で四段貼りで、一尺六寸であった。

  襖障子を一枚貼りで貼ることができる、三尺幅で長さ六尺の大判ふすま紙、いわゆる三六判は、江戸の皺紋を
特徴とする岩石唐紙で始まっている。
  岩石唐紙をさらに改良したものが泰平紙で、これをさらに明治時代に入って改良発展させたものが楽水紙であ
る。この事については、後でくわしく述べる。明治時代に入っての東京の楽水紙の評価が高まるにつれ、長い伝
統に誇りを持つ越前でも一枚貼りの大判のふすま紙の開発に関心が高まり、明治十八年に福井県今立町新在家の
高野製紙場で、手漉襖張大紙を漉くことに成功している。
  高野製紙場では、勧業博覧会などにも積極的に出品して、技術改良にも熱心に取り組み、明治四十年抄紙機で
襖紙の製造を開始し、明治四十二年
には、二重・三重の漉き掛けをこなす抄紙機も開発している。
  越前での大判の襖紙の製造が増えるにつれて、皺紋加工や漉き模様加工の技術が改良され、襖紙の有数の産地
となっていく。

 明治三十年ころには襖判鳥の子紙に、墨流し加工して好評を得て、輸出までしている。さらに明治四十三年に
は、ロンドンで開催された日英博覧会には、水玉紙・雲華紙・漉込紙等が出品されて高い評価を受けている。
  大正七年(1918)の『越前製紙案内』によると、前年の越前和紙の生産額は、襖紙が半紙・光沢紙・奉書紙に
次ぐ四位の生産高を記録するほどに重要な位置を占めている。
  越前の名紙匠と讃えられている岩野製紙の岩野平三郎が、大正期から昭和期にかけて考案した美術紙にはさま
ざまの技法が用いられ、その多くが襖判鳥の子紙の装飾加工にも応用されている。
  昭和九年頃に発行された越前襖紙の見本帳には、有馬紙。東風紙・すみれ紙・飛雲紙・飛龍紙・七夕紙・野分
紙そのほか大正水玉紙・霜降紙・大麗紙・大典紙・金潜紙・銀潜紙・落花紙などの多彩な紙名が見えるが、この
なかの主要なものは、岩野平三郎が考案したものである。
  越前美術紙には、伝統的な打雲などの雲掛け、皺紋入れ、漉き込み、漉き掛け、漉き合わせ、揉み、楮黒皮入
れ、金銀線入れ、布目入れ、落水と水流しなど複雑で多様な技法が巧みに利用されている。
  このような伝統と巧みな技術開発により、襖紙産地としての名声を高め、太平洋戦争後の復興需要で、生産量
が飛躍的に拡大し、機械抄紙機の普及にともなって、現在に至るまで襖紙の主流を占めている。


  本鳥の子

  現在、越前では手漉き紙を「本鳥の子」といい、機械漉き紙を「鳥の子」という。 
 さらに、紙料によって、雁皮だけで漉いたものを特号紙といい、雁皮と三椏の混合を一号、純三椏を二号、三椏
と木材パルプを三号、マニラ麻とパルプで漉いたものを四号と区別している。       
  さらにすべて手漉きで、漉き込み模様を付けたものを、「本鳥の子漉き模様紙」という。
 下地になる和紙の層と漉き込み模様を施す表の層(上掛け)の二層構造になっている。漉き込み模様の表の層は、
主として三椏や楮などの紙料で、流し込みなどのさまざまな技法で模様がつくられる。
  また、楮の黒皮(外皮)を漉き込み独特の風合いを付けたものもある。
  伝統的な手漉き越前和紙の「本鳥の子」は、高級襖紙の代名詞であり時間が経つほどに鳥の子の肌は独特の
風合いを保ち、むしろ新しいものよりも上品な肌合いになる。
  手漉きの本鳥の子紙は、現在では非常に高価なため生産量も少い。


  機械漉き鳥の子

 現在では、量産可能な機械漉きの「鳥の子」が主流を占めている。
  機械漉きの鳥の子でも、紙料は本鳥の子と同様の靱皮繊維の楮や三椏を使ったものからパルプを使ったものま
で品質もさまざまである。
  上質なものは、手漉きの風合いをつくりだすために、抄紙機を非常に緩慢な速度で動かし、繊維の絡みを十分
に行うように漉くため、紙の肌合いが手漉きに近いものができ、その紙質の繊維の均質さから、用途によっては
手漉きの本鳥の子よりも好まれることも多い。
  漉き染めした色鳥の子は色数も豊富で、一般に流通している高級な鳥の子の代表としてさまざまな住宅に使用
されている。
  また下地の層になる和紙を前述のような抄紙械で漉き、上の層(上掛け)の模様を手漉きと同様な技法でつけ
る、鳥の子漉き模様紙もある。
 下地の層を抄紙機で漉く分、純手漉きに比べると価格は安くなるが、漉き込み模様は手漉きのために柔らかな
表現ができ、伝統的なさまざまの技法を用いた多彩な表現ができる。
上質な鳥の子ほど紙の性質は強く、施工に際しては下地骨や下貼りに十分な配慮が必要になる。表面紙にあった
本格的な、下地骨と丁寧な下張りが要求される。
 代表的な下貼りは、@骨縛りA打ち付け貼りB蓑貼り(二〜三回)Cべた貼りD袋貼り(二回)E清貼り(上
貼りにより行う)と行い、高級な仕上げでは十遍貼りを行う。
  このような丁寧につくられた和襖は、ゆうに一○○年を越える使用に耐える。


  新鳥の子

  このほかにも、全て機械漉きの量産されているものに、「上新鳥の子」と「新鳥の子」がある。
  「上新鳥の子」は、鳥の子の普及品で、全て機械漉きのため比較的価格が安く均質なため、一般住宅に用いら
れている。鳥の子の肌合いを活かした無地、機械による漉き模様、後加工による模様付けなど、和紙ふすま紙の
なかでは最も種類が多い。
  「新鳥の子」は、現在襖紙の中では最も廉価な製品で、パルプと古紙を原料とし、製紙から模様絵付けまで一
貫して機械生産されている。製紙方法も殆ど洋紙と同じような方法で生産され、非常な高速で抄紙される。
  抄紙機械は、特殊な二層漉き合わせ機械を用い、表面の模様絵付けも、高速の輪転印刷機で行い、紙の風合い
をつくるために、エンボス機を通して紙に小さな皺紋状の凹凸を付けている。
  現在最も工業的に量産されている製品で、公団住宅や賃貸住宅をはじめとして一般住宅に大量に使用されてい
る。
 近年の家庭用の糊付きふすま紙も殆どはこの「新鳥の子」を使用している。


  (三)  名塩鳥の子


  名塩鳥の子紙の起源

  摂津の名塩(兵庫県西宮市塩瀬町名塩)は、鳥の子紙の名産地として知られている。 名塩鳥の子の名の初出
は『毛吹草』寛永十五年(1638)篇で

  「名塩鳥子  有馬引物  湯ノ山引共云、宜シ」

とあり、諸国より入湯者の参集する有馬温泉の土産として、名塩の半切り・鳥の子色紙が売られていたことが記
されている。
  『摂州名所記』承応四年(1655)篇には

  「名塩、鳥の子紙、昔よりすき出す所也、越前にもおとらさる程にすく、或いは色々
  紙有り」

とあり、同書が書かれた承応年間(1652ー54)より以前の十七世紀前半には、名塩で紙業が発展していたことが分
かる。
  『絵入有馬名所記』寛文十二年(1672)刊には

  「名塩紙 鳥の子を始めて五つの色紙・雲紙までもすき出す事、越前につきてハ  世  にかくれなき名塩な
るべし」

とある。
  名塩において、鳥の子をはじめ五つの色の色紙、雲紙までも漉かれていることは、越前についで世に知られて
いる。その紙の起こりは越前であろうと記している。名塩の紙の始まりを越前と記しているのは、名塩紙に関す
る文献としては同書が初出である。
 
 名塩鳥の子紙の起源について、丹波を経てここに布教した蓮如上人が、文明七年(1475)に教行寺を開いてそ
の子の蓮芸に守らせたが、そのころ紙漉きの技術を伝えたという説がある。
 渡辺久雄著『忘れられた日本史』の「紙祖の発掘」の章で、「紙漉東山弥右衛門」は越前岩本村(福井県今立町
岩本)の成願寺の過去帳から、慶長三年(1598)岩本村から出奔した弥右衛門ではないかと推測している。越前鳥
の子の名産地の岩本村で、紙漉きの技術者が何らかの事情で村を出て、紙漉きの名塩に辿り着き、泥間似合紙を工
夫開発したものといはれている。
  このほかにも説があるが、いずれも越前で紙漉きの技術を習得して、名塩で紙漉きを
はじめたという説である。
  地元では名塩紙業の始祖として東山弥右衛門が定着しており、安政二年(1855)に、漉屋仲間がその徳を讃えて
建てた紙職元祖碑がある。
  紙職元祖碑の裏面の碑文の要約は、

  「名塩紙業が起こってより長い年月が経っている。この製紙を伝えた祖は、弥右衛門  である。しかしながら、
それがいつ頃であったか分かない。ただ弥右衛門の子孫の  釈浄(戒名)が、天明九年十月十二日に没して、弥
右衛門を祀る者が絶えてしまっ  た。誠に哀しいことである。名塩の地の数百戸の家ゝは、農・工・商家といえ
ども
    弥右衛門の恩恵を受けていない者はない。だから今ここに、製紙業者が相談して
    この碑を建てた。今後其の恩に報いる者は、弥右衛門の子孫の没した日を、その始  まりの日としてほしい
。これによって弥右衛門の徳を追慕する。」

とある。
  明治十六年(1883)、明治政府から弥右衛門は追賞されている。その追賞授与証が残っている。(西宮市塩瀬支所蔵)


    「    追賞授与証
                                                    兵庫県摂津国有馬郡名塩村
                                                         故  東山弥右衛門

      文明年間居村ニ耕地ノ乏シキヲ患ヒ民ニ製紙ノ業ヲ授ケ遂ニ一方物ヲ成ス  後生
      其沢ヲ蒙ル者少カラス因テ之ヲ追賞ス

         明治十六年十一月八日
                                             農商務卿正四位勲一等  西郷従道  」

  これは当時の名塩村戸長役場よりの上申に基づき、功労者として授与されたものと思われる。この授与証により、
当時の名塩紙の名声と当時の紙業の隆盛がくみ取れる。
  東山弥右衛門に関する悲劇的な伝承が名塩教行寺文書にある。(中山秀静「名塩紙」)  
  「何時の頃にや、東山弥右衛門といへる仁あり、若くして越前に至り、さる製紙家の   婿養子となって製紙の
法を拾得す。習い得て後、妻子を置き去りて郷里名塩に帰る。
    これより名塩の地に紙をだす。然るに妻女、弥右衛門の跡を慕ひて来たりしに、里
  人之を追うて村に入れず。妻女その無情を恨み「村に癩者絶やさず」と呪い言して   死す。」

越前に残された妻は、弥右衛門を慕ってはるばる名塩を訪れてきたが、村人たちは弥右衛門に今去られては、せっか
く始まった紙業が崩れてしまうのを恐れて妻を村に入れなかった。妻は村人達の無情を恨み、呪い言葉を残して、川
に身を投げて死んだと言うのである。
  この悲劇的伝承は、昭和四十四年水上勉によって「名塩川」と題して小説化され、非常な好評を受けた。NHKか
らも義太夫で放送され、また京都の「都おどり」および宝塚歌劇(昭和五十一年題名「紙すき恋歌」)にも上演され
ている。
  無論小説であり、史実と異なることは言うまでもない。

  名塩鳥の子の始祖としての弥右衛門に関しての伝承は他にもあるが、史実としては以下の説が最も説得性がある。

 名塩の源照寺の永大経奉納木札や源照寺文書によって、安永・天明のころに弥右衛門が名塩にいたことは確かで
ある。そしてそれ以前に名塩に弥右衛門に関する史料が一切見あたらない。
  名塩に弥右衛門が現れる安永年間以前に、越前五郷(岡本五箇ともいう)の岩本村に弥右衛門家と大滝村にも弥
右衛門家があった。安永年間より前の宝暦・明和年間(1751ー 71)は、越前五郷地方は天候不順がつづき、大雨に
よる洪水や日照り続きの干ばつによって農産物は大凶作となった。農産物の大凶作とともに製紙原料の楮や雁皮
などの自生植物も採取が困難となり、特に鳥の子に用いる雁皮は栽培が不可能で、製紙業も原料入手難から困窮を
極めた。
 このため高持ち百姓のうちには田畑を手放して水呑み百姓に転落するものが続出した。その転落者のなかに、
岩本の弥右衛門家か大滝村の弥右衛門家がいたと思われる。そのなかに没落に耐えきれず村落ちして、縁故をたどっ
て同業の名塩の地へ移った者がいたと考えられる。
 越前五郷には真宗派の寺院があり、名塩の源照寺なども真宗派であった。結束の強い真宗門徒の接触があり、縁故
かつてがあったとも考えられる。
 名塩でも弥右衛門を名乗り、優れた越前の鳥の子の製紙技術を指導し、さらに改良や普及に尽力して、その業績を
高く評価されて名塩鳥の子の始祖と讃えられるようになったと思われる。


  名塩鳥の子の特質

  名塩紙の特徴の一つは、往古から現在も「留め漉き」で漉き立てている。
 留め漉きは、奈良時代の紙漉きの伝来以来の古代の製紙法が原型であり、古い歴史を有している。
 留め漉きの特徴は、紙を漉き上げたのち、漉き桁を「スラシ板」にもたせかけ、生紙
に残っている水を垂らしつつ、繊維の密着を図る方法である。

 これに対して、ほとんどの和紙生産地は、平安時代の官立の紙漉き場の紙屋院で確立された「流し漉き」を用い
ている。
  紙を漉くとき、透き舟の前に立って透き舟より紙料を掬い、紙料が漉き桁の竹簀の全面にいきわたるように数回
揺り動かす。ここまでは留め漉きも流し漉きも同様である。
  流し漉きの場合は、簀の上に生紙が形成されると、漉き桁を手元の方へ傾けつつ水を流し、さらに漉き桁を左に
傾けて勢いよく残り水を跳ね上げる。これを「捨て水」といい、この操作によって塵やそのたの不純物が除かれる。
この捨て水こそが「流し漉き」の特徴であり、紙料に添加する粘材のトロロアオイの強力な速効性によって可能と
成っている。
 また流し漉きの操作には、慎重で細心の注意が必要とな。操作如何によっては、紙面
に多くのムラや厚薄を生じやすい。こうしたことから、多くの紙漉き産地では繊細な女子の手によって漉かれ、
これがいわゆる「紙漉き女」である。
  名塩紙のもう一つの特質は、「泥入り」にある。

  その泥入りは、一部の和紙のように単に着色のために、白土を混入するのではなく、混入する土を雁皮繊維の間に
漉き入れて密着固定させている。
 名塩紙の漉き方は、漉き桁を流し漉きのように前後を中心に揺り動かすだけでなく、さらに左右や斜めにあらゆる
角度にも揺する操作をおこなう。このため漉き桁を動かす
労力は流し漉きに比較して非常に大きく、女子では負担が過重なので男子によって漉かれている。
  漉き入れる泥土は、名塩(西宮)の特産の遊離性をもつ火山灰や火山砂で構成されている凝灰岩であり、漉き上げ
たのち一時、簀の上の生紙を「スラシ板」にもたせかけて静止しておかなければ泥土が繊維に密着しない。このため
に粘材の「ネリ」も、速効性をもつトロロアオイを用いず、反応のゆるやかなノリウツギを用いる。
  名塩鳥の子の漉き方は、泥入り鳥の子であるために、留め漉きを特徴としている。
  そして、名塩特産の泥入り鳥の子であることが大きな特質であり、全国にその名が
知れて、特質を活かした泥間似合紙として襖、屏風、衝立などに用いられ、さらには藩札や手形用紙、箔打ち用紙
、薬袋紙などさまざまに用いられた。
  『西宮市史』によると、名塩製紙の種類を鳥の子類、半切り類、雑紙類の三つに分けて記している。
  鳥の子類には、間似合紙、色間似合紙、屏風紙、雲屏風紙、鳥の子紙、五色鳥の子紙、
雲鳥の子紙、広鳥の子、土入り鳥の子紙などがある。
  半切り類には、名塩半切り紙、雑紙類には、名塩松葉紙、浅黄紙、柿紙、水玉紙、薬
袋紙、油紙などがある。
  名塩の長所の一つは、長期保存に耐えることである。
  紙はすべて乾湿に対する抵抗力が弱い。
  室内に張られている襖や障子も湿度が高くなると湿気を吸収し、乾燥すると水分を発散させている。これを繰り
返していると、絡み合っている繊維がもどけて紙の組織が崩壊していく。安価な障子紙などは、一年もすると黒ず
んで破れやすくなるのはそのためである。
  ところが名塩紙の場合は、泥土が混入されているために、湿気は泥土が吸収し、これを発散させるために、繊維
に対する影響が少なく、耐久性に優れている。また、シミ(紙虫)に強いのは、雁皮の繊維の間を泥土の微粒子が
固着して、紙虫の進入を防いでいるからである。このことは、名塩鳥の子の紙質が一段ときめ細やかになるもとに
なっている。


  泥間似合紙

  名塩は鳥の子で知られているが、近世に高級な襖紙として重宝された泥間似合紙 の産地としても有名になった。
 「名塩鳥の子紙」の銘柄が、上方の取引市場に出るのは寛永十五年(1638)からといわれ、近世初期には名塩鳥の
子の名で上方市場の有力商品となっていた。
  岡田渓誌著『摂陽群談』(元禄十四年 1701 刊)には、
 
「 名塩鳥の子土、同所にあり。この土を設け鳥の子紙に漉き交え美を能くす」

とある。
 紙に漉き入れする泥土は、名塩の山麓や段丘に神戸層群第二凝灰岩と呼ぶ地層
があり、所々に露出している。
 凝灰岩は、火山灰火山砂などが堆積してできた岩石であり、石質は非常にもろく、容易に発掘でき、白・青・黄
・渋茶などの色目をしている。
 これらの名塩鳥の子土(泥土)には、東久保土(白色)、天子土(卵色)、カブタ土(青色)、蛇豆土 (茶褐色)
などの名があり、一種または二種を混合して漉きあげ、五色鳥の子、染め鳥の子などとも呼ばれた。
 これらの名塩特産の泥土を門外不出として守った。
  名塩の泥土を紙に漉き込むには、まず粉砕して土壺と呼ぶ約四十センチ四方の穴に入れ、水を加えて土こね棒で
こねて泥状にし、さらに微粒子になるまで徹底的にすりつぶす。微粒子にすりつぶした泥土を、大きな樽に入れて
水を加えて一時間程攪拌して一昼夜放置する。すると樽の中に極小の微粒子だけが浮遊しており、微粒子の少ない
うわ水
を捨て、底に沈殿している微粒子のカスを残し、その昼間の微粒子の含有の多い水を掬って別の大きな容器に移し
て、沈殿を防ぎ雁皮などの繊維への密着凝固を助けるために苦汁を加える。
 このようにして、水に浮遊している微粒子状の名塩土を、紙料に混入して紙を漉く。
  泥土を混入して着色すると、虫害に強く紙の隠蔽性が向上するとともに、日焼けせず長期間の保存にに耐える耐
候性が向上し、紙の肌がきめ細かくしっとりとした風合いがでる。
 欠点としては、泥土の混入が多い紙は柔軟で破れやすく、他の紙に比べて目方が重く、さらに墨で文字を書くと
滲むなどといわれている。これらの短所は、泥土の混入の比率の多い下張り用の間似合紙のことであり、混入比率
の少ない高級間似合紙や鳥の子紙になると、欠点が少なくなり、色紙や短冊、書簡用半切り紙、書写用経紙、藩札
などに用いられた。
  名塩の青色の泥間似合紙は「箔下間似合」といって、金箔を押す下地に使用すると、金箔の皺がよらず金色が冴
えるため、箔打ち紙として使用された。金箔打紙には東久保土、銀箔打紙には 蛇豆土を混入した。さらに青色の
泥間似合紙は、隠蔽性の良さと日焼けしにくい特性から、襖用の間似合鳥の子紙として使用され、上方市場に近い
ことから発展した。
  間似合紙は、半間(三尺 90p)の間尺に合う紙の意で、普通は襖障子を貼るのに用いられる。横幅は三尺一寸
ないし三尺三寸で、標準的な杉原紙や美濃紙の横幅の倍ほどもあり、縦幅は一尺二寸ないし一尺三寸である。
  それまでの唐紙は横幅一尺六寸、縦幅は一尺九分が標準で、襖障子を貼るのに十二枚必要であった。間似合紙は
五枚ないし六枚てで足り、間似合唐紙とか間似合鳥の子ともいわれた。


 (4)からかみ物語


  (一)唐紙師


  経師からの分業

  鎌倉時代にはいって、書院造りが普及してから、「唐紙師」という襖紙の専門家があらわれ、表具師(布や紙
を具地に貼る)は分業化され、その名を引き継いで経師ともいわれた。経師が木版摺りを行ったようである。経
師とは、本来は経巻の書写をする人のことであり、経巻の表具も兼ねており、さらに唐紙を障子に張るようにな
って、襖の表具もするようになった。そして、「からかみ」の国産化に伴って木版を摺る絵付けまで守備範囲が
拡大したようである。
 むろん当時の「から紙障子」は公家や高家の貴族の邸宅に限られており、需要そのものが少なく、専門職を必
要とはしていなかった。         
  南北朝から室町初期に完成した『庭訓往来』には、「城下に招き居えべき輩」として多くの商人、職人の名を
列挙しており、襖障子に関係するものとして唐紙師、経師、紙漉き、塗師、金銀細工師などが挙げられており、
襖建具が分業化された職人を必要とするほどに、武士階級に相当普及していた事とが知れる。
  唐紙師は、漉き上がったかみにさまざまな技法を用いて紋様絵付けを摺る職人のことである。
  職人衆の知行を記している『小田原衆所領役帳』には、永禄二年(1559)の奥書があり、職人頭の須藤惣左衛
門の二九一貫に対して、唐紙師の長谷川藤兵衛は四十余の知行を受けていたことが記されている。                                             
 明応九年(1500)の『七十一番職人歌合』の唐紙師の図には、  

 「 そら色のうす雲ひけどからかみの  下きららなる月のかげなり  から紙師  」

とある。


  (二) からかみの技法


  きらら
  「からかみ」は、紋様を彫った版木に雲母または具(顔料)を塗り、地紙を乗せて手のひらでこすって摺る。                    
  雲母は花崗岩の薄片状の結晶の「うんも」で古くは「きらら」、現在では「きら」といい、白雲母の粉末にした
ものを用いる。独特のパール状の光沢があり、どの顔料ともよく混ざり、大和絵の顔料として用いられてきた。

  具は、蛤などの貝殻を焼いて粉末にした白色顔料の胡粉に膠や腐糊 と顔料を混ぜたものである。胡粉は鎌倉時代
までは「鉛白」が使われ、白色顔料として使用された。胡粉は顔料の発色が良くなり、また地紙の隠蔽性を高める。
このため地塗りとしても使用された。一般的には、顔料を混ぜた具で地塗りをして、雲母で白色の紋様を摺る方法
(地色が暗く、紋様を白く浮かせるネガティブ法)と、雲母で地塗りして、具で摺る具摺り(地色が白く、紋様に
色がつくポジティブ法)も行われた。


  絹篩

  これらを基本に各種の顔料や金銀泥を加えて紋様が摺られるが、絵具を版木に移すときに絹篩いという用具を
用いる。絹篩は、杉などの薄板を円形状に丸めた木枠に、目の粗い絹布か寒冷紗(粗くて硬い極めて薄い綿布)
を張ったもので、これに絵具を刷毛で塗り、版木に軽く押しつけて顔料を移す。顔料の乗った版木の上に地紙を
乗せて、紙の裏を手のひらで柔らかくこする。その動作が平泳ぎのような手の動きに似ている事から、「泳ぎ摺
り」ともいう。
  版画のように版木に直接絵具を刷毛塗りをせず、から紙は絹篩を通して絵具を移し、手の平でこするのは、顔
料の着量の調節が目的で、ふっくらとした風合いのある仕上がりを得るためであ。 
 木版摺りには、この他に空摺り・利久紙(利休紙)摺り・月影摺り・蝋箋などの技法も使用されていた。                    


  空摺り

 空摺りは、同じ画の版木を陽刻の凸状のものと、陰刻の凹状の二版に彫り分け、陰刻の版木の上に地紙を乗せ
て、上から陽刻の版木を重ねて圧をかけると、凸状の形が浮き出る技法で、今日のエンボスと同様な形押しの技
である。浮いた凸面から彩色加工を施し、レリーフのような質感をもたらす。


  利久紙摺り

  利久紙摺りは、西の内紙などの生漉き紙に礬水 (明礬を溶かした水に膠を加えたもの。絹や紙の表面に引い
て墨や絵具のにじみを防ぐ)を引き、乾燥させてから染料を塗る。次に版木に薄い米糊を塗って、紙の上に載せ
て押しつけてから、版木を取ると版木の紋様の部分の染料が薄くはがし取られ、微妙な濃淡のあるネガ状の風雅
な紋様が現れる。

  月影摺り

  月影摺りは、細川紙や西の内紙などの生漉き紙に、礬水を引かず、薄墨色だけで紋様を摺ったもので、墨のに
じみを特徴とし、江戸で多く作られた。
  また版木の代わりに型紙を用いる絵付け技法もある。
  京からかみの場合は、型紙(紙を貼り合わせて柿渋を塗った渋紙を用いて型を切り抜いたもの)を用いて絵具
を厚く盛り上げる「置き上げ」が行われ、江戸からかみでは更紗型染(捺染型染で、染料に膠を加えたもので型
染めする)の技法を用いている。


  蝋箋

  蝋箋は、紋様を彫った版木の上に紙を載せて、紙の上から固い物でこすって磨き、あたかも蝋を引いて紋様
を描いたような図柄ができる。             


  墨流し           

  また、特殊な技法として、墨を水面に流した上に、松脂 を滴して、墨を水面に散らしこれを紙に写し取る、
「墨流し」という技法もあった。           


  揉み紙    

  からかみの技法のなかに、版木などによる摺りものとは異なる「揉み紙」という独特の技法がある。紙を揉
むのは、布地の感触をだす技法で、中世に茶道の表具用の紙として揉み紙が使用され、のちにから紙にも揉み
紙の技法が採用された。


  (三) 京から紙


  紙屋川と秦氏

  京都の西北に連なる鷹ケ峰、鷲ケ峰、釈迦谷山などの山稜から一筋の川が流れている。南下して北野天満宮
と平野神社の間を抜けて、西流して
やがて御室川と合流し再び南下して、桂川に注ぐ。この流れを紙屋川と呼ぶ。
  紙屋川と呼ぶのは、平安時代の初期に図書寮直轄の官営紙漉き場の紙屋院(かんやいん とも言う)がこの
川のほとりに設けられたからである。紙屋院の置かれていた位置の明確な記録はないが、『擁州府誌』には、
  「北野の南に宿紙村あり、古この川において宿紙を製す。故に紙屋川と号す。」 

とある。『日本紙業史・京都篇』によっても、北野天満宮あたりの紙屋川のほとりにあったことは確かである。
  官営紙漉き場であった紙屋院は、平安時代の製紙技術のセンターであり、
当時の最高の技術で紙を漉き、地方での紙漉きの技術指導も行った。
  『源氏物語』には、「うるわしき紙屋紙」と表現し、またその色紙を「色はなやかなる」と讃えている。
  紙屋院が設けられる前の、奈良時代にも図書寮が製紙を担当していた。
『令集解』には、紙戸五○戸を山代国(山城国・現京都)に置いたと記録している。
  山城国に特定したのは、古代における最大の技術者渡来集団といえる、秦氏が勢力を張っていた拠点であった
からである。
  秦氏の渡来当初は、現在の奈良県御所市あたりに大和朝廷より土地を与えられている。
 のちに主流は山城国に移り、土木・農耕技術によって嵯峨野を開墾開拓し、機織り・木工・金工などの技術者
を多く抱えて、技術者集団をなしていた。
  機織りの技術者がいたことから、当然当時の衣料の原料である麻や楮の繊維から製糸する技術者もいた。
  製糸の技術は、麻や楮の靱皮繊維を利用することでは、製紙と類似技術であり、原料の処理工程は殆ど一緒で
あり、繊維を紡ぐか、繊維を漉くかの、まさに紙一重の違いしかない。
  すでに原始的な紙漉きの技術を、持っていた可能性もある。
  このような技術的な基盤のもとに、平城京の政権は、山城国(山代国)
に紙戸(官に委託された紙漉き場)を置いた。
  飛鳥時代の宮廷・官衙の物資調達に任じたのが蔵部で、秦大津父は大蔵掾に任じられ、聖徳太子の蔵人となっ
た秦河勝は京都太秦に峰岡寺(のち広隆寺)を造営している。
  秦忌寸朝元は天平十一年(739)に図書頭に任じられている。 
  平安時代に入ると、秦公室成は弘仁二年(811)図書寮造紙長上であった秦部乙足に替わって、図書寮造紙長
上に任命されている。
  秦氏は、このように古くから、造紙関係の要職と深くつながっていた。
   秦氏のような、技術者の基盤の上に製紙の国産化が行われ、山城国が製紙の先進技術を誇り、和紙の技術セ
ンターの役割を担ったが、紙の需要が高まるにつれ、原料の麻や楮は地方に頼らざるを得なくなった。
  紙の需要が高まるにつれ、皮肉なことに律令制度に緩みがでて、紙の原料の供給が細ってしまった。
 紙屋院の技術指導によって、各地で紙漉きが盛んになり、律令制度の統制力の弱体化とも相まって、紙屋院は
原料の調達が思わしくなくなった。
  このような経緯で、紙屋院は反故紙を集めて漉き返しの宿紙を漉くようになった。
 のちに、紙屋紙は宿紙の代名詞とも成り、のちに堺で湊紙、江戸で浅草紙という宿紙が漉かれるようになっ
てから、京都の宿紙は西洞院紙と呼ばれるようになった。


  加工紙技術の発展

  京では、紙漉きそのものが、律令体制の緩みによる原料の調達難から衰退したのとは対照的に、紙の加工技術
で高度な技術を開発して、和紙の加工技術センターとして重要な地位を占めるようになっていく。
  紙を染め、金銀箔をちりばめ、絵具や版木で紋様を描くなど、加工技術に情熱を傾け、雅で麗しき平安王朝の
料紙を供給していった。
  京における高度な紙の加工技術が、平安王朝のみやびた文化を支えたともいえる。豊かな色彩感覚は、染め紙
では高貴やかな紫や艶かしい紅が
このんで用いられるようになった。複雑な交染めを必要とする「二藍」や
「紅梅」さらには、朽葉色、萌黄色、海松色、浅葱色など、中間色の繊細な表現を可能とした。
  かな文字の流麗な線を引き立てるには、斐紙(雁皮紙)が最も適している。墨流し、打ち雲、飛雲や切り継ぎ
、破り継ぎ、重ね継ぎなどの継ぎ紙の技巧そして、中国渡来の紋唐紙を模した紋様を施した「から紙」など、京
の工人たちは雁皮紙の加工に情熱を注ぎ、和紙独特の洗練された加工技術を完成させた。
  王朝貴族の料紙ばかりではなく、実用的なさまざまな加工紙が京で加工された。
  元禄五年(1692)刊の『諸国万買い物調方記』には、山城の名産として扇の地紙、渋紙のほか、水引、色紙短
冊、表紙、紙帳、から紙などをあげている。このほかにも万年紙屋、かるた紙屋があり、半切紙の加工も京都が
本場であった。
 万年紙は、透明な漆を塗布した紙で、墨筆で書くメモ用の紙で、湿った
布で拭けば墨字が消え、長年に使えるので万年紙の名ががある。製法は、楮の厚紙(泉貨紙)の表裏を山くちな
しの汁で染め、渋を一度引いて乾かし、透明な梨子地漆で上塗りして、風呂に入れて漆を枯らし、折本のように
畳んで用いるとある。 
 半切紙は書簡用紙であり、これを継ぎ足したのが巻紙である。この書簡用紙を京好みに染めたり紋様を付ける
などの加工を施した。
  半切紙の加工は、西洞院松原通りで盛んであった。
  色紙や短冊は、この半切紙に比べてより高級な加工が必要であったが、
宮中御用の老舗が多かった仏光寺通りが色紙短冊の加工の中心であった。
  から紙は、平安時代には詠草料紙として加工が始まり、後にふすま紙の主流となったが、本阿弥光悦の嵯峨の
芸術村では、紙屋宗二が嵯峨本などの用紙として美しい紙をつくった。
  ふすま用の「から紙」は、東洞院通りを中心に集まっていた。このように中京・下京区には京の紙加工センタ
ーであった。


  鳥の子から紙

 から紙の地紙はもともと檀紙(楮紙)や鳥の子紙(雁皮紙)が使われ、「京から紙」は主に鳥の子紙と奉書紙
が用いられた。
  斐紙と呼ばれていた雁皮紙は、特にその薄様が平安時代に貴族の女性達に好んで用いられ、「薄様」が通り名
となっていた。この雁皮紙が鳥の子と称されるようになるのは、南北朝時代頃からである。
  足代弘訓の『雑事記』の嘉暦三年(1328)の条に「鳥の子色紙」の文字があり、『愚管記』の延文元年(1356
)の条に、「料紙鳥子」とあり、さらに後崇光院の『看聞日記』永享七年(1431)の条にも「料紙鳥子」の文字
が見える。
  平安の女性的貴族文化の時代から、中世の男性的武士社会にはいって、厚用の雁皮紙が多くなり、薄様に対し
てこれを鳥の子紙と呼んだ。近世に入ると雁皮紙はすべて鳥の子紙と呼ぶようになった。
 『宣胤卿記』の長享二年(1488)の条に「越前打陰」(鳥の子紙の上下に雲の紋様を漉き込んだもので、打雲
紙ともいう)、文亀二年(1502)の条に「越前鳥子」の文字が記されている。「越前鳥子」の文字は他の史料
にも多くあり、室町中期には越前の鳥の子が良質なものとして、持てはやされるようになっている。
  この鳥の子紙に木版で紋様を施したのが「から紙」である。
  紙に紋様をつける試みは中国の南北朝時代に始まり随・唐時代に発展した。日本でも奈良時代から行われ、
中国の木版印刷による「紋唐紙」をまねて「から紙」作りが試みられ、「唐紙」にたいして「からかみ」と称し
た。京の紙加工の工人によってさまざまの独自の工夫が施され、量産されるようになって「ふすま」用の「から紙」
に用いられるようになった。さらに木版印刷の技術の蓄積により、江戸時代になって千代紙として庶民にも親し
まれるようになった。


  鷹ケ峰芸術村

  「からかみ」作りは、もともと都であった京で始まったもので、京都が発祥地であり本場であり、その技術も
洗練されていた。
  近世初期の、本阿弥光悦の鷹ケ峰芸術村では、「嵯峨本」などの料紙としてのから紙を制作し、京から紙
の技術をさらに洗練させ、京の唐紙師がその伝統を継承していった。
  本阿弥光悦(1558ー1637)は多賀宗春の子で、刀剣の鑑別。研磨を業とする本阿弥光心の養子となった。
絵画・蒔絵・陶芸にも独創的な才能を発揮したが、書道でも寛永の三筆の一人でもあった。
  本阿弥光悦の晩年の元和元年(1615)、徳川家康から洛北の鷹ケ峰に広大な敷地を与えられ、各種の工芸
家を集め本阿弥光悦流の芸術精神で統一した芸術村営んだ。
  本阿弥光悦の芸術の重要なテーマは王朝文化の復興であり、その一つとして王朝時代の詠草料紙の復活と
「からかみ」を作り、書道の料紙とするとともに、嵯峨本の料紙とすることであった。
  嵯峨本は、別名角倉本、光悦本ともいい、京の三長者に数えられる嵯峨の素封家角倉素庵が開版し、多く
は本阿弥光悦の書体になる文字摺りの国文学の出版であった。慶長十三年(1608)開版の嵯峨本『伊勢物語
』は、
挿し絵が版刻された最初のものであった。嵯峨本の影響を受けて、仮名草紙、浄瑠璃本、評判記なども版刻
の挿し絵を採用するようになった。
  仮名草紙の普及で、のちに西鶴文学が生まれ、挿し絵と文字を組み合わせた印刷本が、庶民の要望に応え
て量産されるようになった。
  嵯峨本は、豪華さと典雅さを特徴とし、装丁・料紙・挿し絵のデザイン
のきわめて優れたものであった。料紙は王朝文化の伝統に新しい装飾性を加えた図案を俵屋宗達が描いてい
る。俵屋宗達は慶長から寛永にかけて活躍した絵師で、光悦の芸術村での独特の表現と技術を凝らした画風
がのちに宮廷に認められ、狩野派など一流画壇の絵師たちと並んで仕事を請け負うようになり、町の絵師の
出身としては異例の「法橋」に叙任され、今日に残るふすま絵や屏風絵の名作を描いている。
  俵屋宗達は、のちの緒方光琳やその流れを汲む琳派に強い影響を与えている。
  この俵屋宗達の図案を版木に彫り、印刷してから紙料紙にする仕事を担当したのが紙師宗二である。
  紙師宗二は、光悦の芸術村活動に参加した工芸家で、「紙師」の文字は、
紙を漉く工人を意味するのではなく、唐紙師の意で称されている。
  光悦の発想と宗達の意匠に宗二の加工技術が調和して、美しいから紙の料紙が生み出された。
  芸術村で作られた「から紙」は、ほとんどが嵯峨本の出版用の料紙や詠草料紙であったが、近世の京唐紙
師の一部にその技術が伝承されて、京からかみの基礎を築いたとも言える。
  京からかみの紋様のなかに光悦桐や、宗達につながる琳派の光琳松、光琳菊、光琳大波などのデザインが
ある。


  唐紙屋長右衛門

 『雍州府志』貞享元年(1648)刊に、京の唐紙師について

  「いまところとどころこれを製す。しかれども東洞院二条南の岩佐氏の製するは、襖障子を張るのにもっと
もよし、もっぱらこれを用いる。」 

とあり、『新撰紙鑑』には、

  「京東洞院、平野町あたりに唐紙細工人多し。」

とある。
  元禄二年(1689)刊の『江戸惣鹿子』には、十三人の唐紙師の名がある。  
 文政七年(1824)の『商人買物案内』には、唐紙屋として八軒の名が挙がっている。
  現在も続いている京唐紙師の「唐紙屋長右衛門 (唐長)」の家系を継ぐ『千田家文書』に、天保十年(1839
)に唐紙師が十三軒あったと記されている。
  からかみの紋様は、当初「唐紙」の唐草や亀甲紋様などの幾何学紋様が主流で、近世にはいって光琳派などの
絵画の技巧的な装飾文様が多用されるようになった。
  京の唐紙屋仲間の多くは、元治元年(1864)の蛤御門の変で多くの版木を焼失してしまった。
  唐紙屋長右衛門は、蛤御門の変の時、タライに水を張り、目張りした土蔵に版木を入れて、戦乱の火災から
唐紙の版木を守り抜いた。蛤御門の変で版木の焼失を免れて、明治以後に残った唐紙屋は、唐紙屋長右衛門を
含めてわずかに五軒であった。
  しかし、その殆どは東京の量産体制の唐紙に押されて、大正時代に廃業し、現在も京唐紙の伝統を守り継い
でいるのは唐紙屋長右衛門、すなわち「唐長」の千田長次郎氏のみである。
  唐長には約六百枚の版木がある。
  これらは、十二枚で一面の襖になる十二板張り判と十板張り判そして五枚張り判とがある。
  十二枚張り判はほとんどが江戸時代のもので、版木の大きさは約縦九寸五分、横一尺五寸五分である。天明
八年(1788)の大火で版木を全て焼失
し、再刻されたもので、最も古いものは「寛政四年六月  唐紙屋長右衛門 彫師平八」と墨書されている。
  十枚張り判は明治・大正期のもので、縦一尺一寸五分、横一尺五寸五分
である。五枚張り判は、大正・昭和期のもので、十枚張り判の横幅を二倍にしたもので、横三尺一寸と間似合
紙の寸法に合わせてある。
  これらの版木の材質は、サクラやカツラのものもあるが、ほとんどはホオノキで作られている。
  これらの多くの版木から、華麗で多彩な京唐紙が摺り出されて、日本の伝統工芸としての唐紙が作り続けら
れてきた。
  千田家の先祖は、もともと摂津国出身の北面の武士であったが、初代長右衛門はその晩年に唐紙屋を始めた
と伝えられている。初代長右衛門の没年は貞享四年(1687)十一月となっているので、「唐長」の伝統は三百
年をすでに越えている。ちなみに千田家の元当主竪吉氏は十一代目である。


   京からかみの技法

   江戸の唐紙師を「地唐紙師」ともいうが、これは京を本場とする呼称であった。その江戸から紙を「享保千
型」ともいい、享保年間(1716〜36)に多様な紋様が考案され、江戸から紙が量産されたからその名がある。
  江戸から紙は、江戸という大消費地を控えて需要が多く、から紙原紙は
近くの武蔵の秩父・比企郡で産する細川氏を用いた。細川氏は純楮の生漉紙で「生唐」とも呼ばれた。

  これに対して、京から紙は越前奉書紙や鳥の子紙などの高級な加工原紙を用いて、伝統技法と王朝文化の流
れを汲む洗練された紋様を摺って、京から紙の伝統を守りそれを誇りとしていた。
  京から紙師の意気を示すものとして、八代目の唐紙屋長右衛門が明治二十八年の第四回内国勧業博覧会に出
品した時の審査請求書に、

  「東京、大阪地方ニ於ケル製品ハ、・・・・・粗製ノ上同業者競争ヲ起コシ
  益々濫造ニ流ルゝノ傾向ナリ。之ニ反シテ京都製品ニ於テハ、紙質其  他原料等ヲ撰ミ、・・・・・白地雲
母唐紙ノ如キハ京都ノ水質ニ適シ、他
    ニ比類ナキ純白善良ナル品ヲ製ス。故ニ下等室壁張ニハ適セザルモ、
    上等室壁張唐紙等ハ悉く京都ニ注文アリ。之レ我京都功者ノ名誉ナ  リ。」

とある。時代の流れで量産の必要性から、やや粗製濫造の傾向にある東京
大阪の唐紙屋に対して、伝統を重んじる京都の伝統工芸的職人の唐紙師の意地が示されていると言える。
  京唐紙の技法の概略は、地紙をまず紙に礬水を引き、顔料あるいは染料で染める。そして具あるいは雲母
を溶き、姫糊を加え、布海苔、膠、合成樹脂などを適宜に調合した顔料を、大きな篩い塗って、版木にまん
べんなくつける。次ぎに紙を版木の上に置いて手のひらでこすり紋様を摺る。
その紙を篩でまた顔料で塗り、手のひらで摺ること二度三度と繰り返して、
量感のあるふっくらと摺り上げて仕上げる。
  京から紙は、版木に柔らかいホオノキを用い、刷毛でなく篩で顔料を塗り、バレンでなく手のひらで摺り
上げ、独特の暖かみのある京から紙が作られる。
  また、版木による型押しの技法のほかに型紙による技法ももある。
  片目によく練った雲母粉を、竹ベラでこの型紙の紋様部分を埋めていく。
この他にも漆型押し技法や金箔・銀箔の箔押しや糊を付けた筆で紋様を描いて金銀砂子を振り掛ける砂子振
り等の技法も用いられた。さらに京独特の揉み紙技法もあった。揉み紙の技法は、熟練した指の動きで各種
の揉み紋様を表す技法で、上層と下層に違った顔料を塗って、揉み皺によって上層の顔料が剥落し下層の顔
料が微妙な線となってあらわれ、独特の紋様を作る。揉み方には十五種類があり、小
揉み、大揉み、小菊揉み、菱菊揉み、山水揉みなどの名称がある。この揉みの技法に各種の型押し技法を組
み合わせた手の込んだから紙もあった。
  京から紙の伝統は、手間暇を惜しまず、量産効果を望まず、ひたすらに
伝統工芸の手作りの暖かみを保ち続けた。


   京からかみの紋様

   襖障子は、明かり障子のように採光性という重要な目的性という機能を持たず、たんに室内の間仕切りと
しての役割しか持っていない。それでいて、構造的な壁面と違って、その部屋の役割や個性や室礼に重要な
役割を果たしている。
  その部屋の果たすべき目的や雰囲気は、襖障子に描かれた紋様によって、大部分が決定されているとも言
える。
  格式を重んじる応接間としての書院と、やすらぎを得る家族の居住する居間とは自ずからふすま障子の紋
様の果たす役割が異なる。さらに、その家の主の社会的立場や好みによっても、襖障子の紋様は異なった。
  襖の紋様を大別すると、公家好み、茶方好み、寺社好み、武家好み、町や好みに分けられる。


  公家好みの紋様

  格式を重んずる公家らしく有職紋様が多い。
 有職紋様には幾何紋が多く、松菱、剣菱、菱梅などの菱形が目立ち、武家や町屋向けにも流用されている。
  唐草紋様は中国の影響で古くから用いられ、想像上の動物や植物を図案化した宝相華唐草や鳳凰丸唐草が
る。このほか牡丹唐草、獅子丸唐草、
菊唐草などがある。
  松唐草、桐唐草、桜草唐草などは、有職紋様から発して和風紋様として
広く用いられ親しまれている。
 京から紙の有職紋様としては、東大寺紋様とか花鳥立涌紋がある。
  立涌紋は「たちわき」とも言い、公家装束に多く用いられ、相対した山形の曲線を縦に連ね、向き合った
中央はふくれ、両端はすぼまった形の図案のこと。中央に描いた紋様によって雲立涌、牡丹立涌、藤立涌、
桜橘立涌などがある。桜橘立涌は、右近の桜、左近の橘にちなんでいる。
  宮廷雅楽に伝承されている「青海波」の装束紋に由来する青海波は特に有名である。雲に瑞鳥を配した雲
鶴紋は、今も京都二条城の襖を飾っている。このほか鳳凰の丸、萩の丸、梅の丸などの丸紋も公家好みとし
て多用された。


  茶道好みの紋様

  茶道の家元は、独自性を重んじる禅宗文化の影響で、それぞれの家元の好みの紋様を版木に彫らせて、
独自の唐紙を茶室に張らせた。
  表千家の残月亭には、千家大桐と鱗鶴が使われている。
  桐紋は、唐紙紋様の中でも最も多く、平安時代は皇室の専用であったが、のちに公家や武家にも下賜さ
れて多彩に変化した。
 太閤秀吉の好んだ花大桐は、花茎が自由な曲線で左右に曲がり、葉形に輪郭がある。
  千家大桐は、花茎が直線で葉形に輪郭がない。これは太閤秀吉の花大桐が版木を用いたのに対して、型
紙を用いて胡粉を盛り上げた技法の違いである。
  このほか茶道の好みの桐紋には、変わり桐、光悦桐、光琳桐(蝙蝠桐)、
兎桐ね布袋桐、お多福桐などさまざまな意匠がある。
  松葉図案も茶道好みの紋様で、茶道の家元では十一月中旬の炉開きから
三月頃まで、茶室の庭には松葉を敷く習わしがあり、このしきたりに由来した図案である。
  表千家の不審庵には千家松葉(こぼれ松葉ともいう)、裏千家には敷松葉が好まれている。
  このほか表千家好みには、唐松、丁字形、風車置き上げ、吹き上げ菊などがある。裏千家好みには、小花
七宝、宝七宝、細渦、松唐草などの図案を工夫している。
  武者小路千家では、吉祥草を特別に好みとし、壺型の土器を散らした
「つぼつぼ」は三千家共通に用いられている。
  このほか小堀遠州の流派には、遠州輪違いを用いている。
  茶道の家元での紋様は、ほとんどが植物紋様で、整然とした有職紋様のような幾何紋様は見あたらない。
 茶道の精神は、俗世間を超越した精神的高揚を重んじる「侘茶」の世界であり、秩序正しい有職紋様はそ
ぐわない。


  寺社好みの紋様

  寺院の大広間などに使われている紋様には雲紋が目立っている。大大雲、影雲、鬼雲、大頭雲などで、こ
れに動物を配した雲鶴紋、竜雲紋などがある。京都の寺院では桐雲は一般的である。
  高台寺の高台寺桐、清涼寺の嵯峨桐、西本願寺の額桐などの桐紋がある。
また西本願寺では下り藤を特に好み、東本願寺でも八つ藤を用いている。
  東本願寺の抱き牡丹は同寺院の象徴として用いられ、ほかに抱き牡丹立涌、六篠笹などがある。
  知恩院好み抱き茗荷と三菱葵丸立涌である。
 三菱葵は徳川家の独占であるが、知恩院は家康の生母の菩提寺であるため使用が許されてた。
  一般の葵紋は双葉葵を用い、神社の代表的なものとして加茂神社が神紋の双葉葵を用いている。加茂神社
の双葉葵は写実性が強く古風な格式がある。


  武家と町屋好みの紋様

  武家好みには、雲立涌、宝尽し市松、小柄伏蝶、菊亀甲のような有職紋様の系譜の整然とした堅い感性の
ものが多い。また唐獅子や若松の丸、雲に鳳凰丸、桐雲なども公家や寺院で用いられた図案の系譜に属する。
  町屋好みは、豆桐や小梅のようにつつましさを持ちながらも、光琳小松、
影日向菊、枝垂れ桜のような琳派の装飾性の高い紋様を好んだ。
  琳派紋様は、京の唐紙師たちが嵯峨の芸術村の強い影響を受けて、洗練された唐紙紋様として多様化した。
  琳派紋様の系譜には、枝紅葉、紅葉と流水、竜田川、光悦桐、光悦蝶、荒磯、光琳大波、光琳菊、光琳小
松などがある。
  幾何紋様は直線、曲線、渦線、円などで構成され、単純な紋から複雑な紋まで多彩で、京唐紙にも多く用
いられている。
  菱形、亀甲、麻葉、市松、丸紋、渦紋、輪違いなどが多用されている。
  また寺社や名家では家紋を襖障子に用いる事も多かった。


  (四) 江戸から紙


  生漉き唐紙

  京から紙が越前奉書紙や鳥の子紙などを高級な紙を用いたのに対して、「江戸から紙」は、西の内紙、細川
紙、宇陀紙などを用いた。
  西の内紙は、常陸の久慈川上流地域の那珂郡の西の内で漉かれた、純楮紙で黄褐色の厚紙で、丈夫で保存性
が良い紙である。水戸藩の保護の下、常陸特産の紙として江戸時代には高い評価を受け、『日本山海名物図絵』
には、越前奉書・美濃直紙・岩国半紙と並んで、西の内紙は江戸期の最上品の紙とされている。
  細川紙は、もともと紀州高野山麓の細川村で漉かれた、楮紙の細川奉書を源流としており、江戸期に武蔵野
の秩父・比企・の両郡で盛んに漉かれた。細川紙では、特に比企郡小川町が有名で、「ぴっかり千両」という
言葉があり、「天気さえ良ければ一日千両になる」と言われたほど繁栄し、江戸町人の帳簿用や襖紙加工の原
紙として利用された。細川紙技術保存会によって今日まで技術が伝承され、昭和五十三年(1978)に、細川紙
の製紙技術は重要無形文化財に指定されている。 
 細川紙も西の内紙と同様に純楮の生漉き(一切他の原料を混ぜない)が特徴で、生唐(生漉き唐紙の略)と
称した。
 宇陀紙は、大和の吉野の産の紙で、もともと国栖紙と呼ばれた楮の厚紙で、吉野郡国栖郷で漉かれたものを
、宇陀郡の紙商が大坂市場に売り出し、吉野紙専門の紙問屋があって全国に売り広められて、宇陀紙の名が広
まった。                  ついでながら「吉野紙」としては極薄様の紙で名高く、『七
十一番歌合』に、 

  「忘らるる我が身よ いかに奈良紙の薄き契りは むすばざりしを」


とあり、奈良紙すなわち吉野の延紙(鼻紙)の薄さを「やはやは(やわやわ)」と、みやびやかに呼んで、公
家の女性たちはその薄さを愛した。また、その特性を活かして「油こし」や「漆こし」に利用されて全国にそ
の名が知られていた。
  宇陀紙は、吉野ので漉かれた杉原紙(中世の武士社会に最も流通した中葉の楮紙で、本家播磨の杉原紙を各
地で模造した)を源としており、江戸でも多く流通し江戸からかみに用いられた。


  更紗型染め                

 江戸期の人工は一〇〇万を越えて紙の需要も大きく、唐紙の普及と大火が相次いだことで、唐紙の需要も
急拡大して、関東の紙漉き郷は、江戸市民に日用の紙を供給する重要な役割を果たした。
 そして明治期以降は、襖紙の業界を東京がリードするようになっている。
 江戸からかみの紋様絵付けは、木版摺りと共に更紗型染めが多く用いられた。
  木版に絹篩を通して絵具を移して摺る木版摺りは、やわらかい風合いがあるが型染めの捺染では、硬く鋭い
鮮明な紋様がやや冷たい感じとなるが、型合わせができるため、多くは三枚から四枚の型紙を用いて染める多
色摺りの追っかけ型を用いた。 
  江戸では、しばしば大火に見舞われ版木を消失することが多く、応急にからかみのを作る必要に迫られて、
型紙の捺染を用いたものが発展した。   江戸からかみのデザインは、捺染に適した小粋な江戸小紋が多用
されたのが特徴のひとつといえる。


  岩石唐紙

  江戸時代の建築図面では、襖障子と唐紙障子の区別が有ったようだ。
  襖障子は、表面仕上げに鳥の子紙を貼り、その上に金箔を貼りその上から極彩色の岩絵の具で絵柄を描くか、
鳥の子の地肌に直接彩色あるいは墨
で絵を描いたものを指した。
  唐紙障子は、無地色紙あるいは木版で紋様を摺った「から紙」を仕上げに貼った障子を指している。
 唐紙は、胡粉(鉛白を原料とした白色顔料で、室町期以降は貝殻を焼いた粉末を用いた)に膠をまぜたものを
塗って目止めをした後、雲母の粉を唐草や亀甲などの紋様の版木で摺り込んだものである。           
  国産化された初期の唐紙は、斐紙(雁皮紙)に「花文」を施したもので、「からかみ」「から紙」と表記され
た。
  『新選紙鑑』には、襖紙のことを「からかみ」とし、

  「から紙多く唐紙といふ。しかれども毛辺紙にまぎるるゆへ
  ここにから紙としるせり」

とある。このことは以前にも記した。
  唐紙障子に貼る襖紙を江戸時代後期には、和唐紙と称してさまざまに改良工夫されて量産化されている。
  江戸において唐紙の需要が最も多く、和唐紙も江戸で盛んにつくられた。和唐紙は、江戸後期では三椏七分、
楮三分の原料で漉かれ、大判を特徴としている。文化四年の「和製唐紙 紙漉屋仲間 新規議定之事」によると
、幅二尺長さ四尺五分が標準寸法としている。
  このころに岩石唐紙という、幅三尺長さ六尺という、いわゆる三六判の大判も初めて漉きはじめられている。
石で叩いたような皺紋があったので、岩石唐紙と呼ばれた。
 漉き方はいわゆる「流し込み式」で、紙料液を漉き桁に流し込んで、手で均等に分散させ、簀に乗ったままの
湿紙を天日で乾燥させる。
 このように簀のまま乾燥させると、簀の目が皺紋をつけて、独特の風合いをもった唐紙となる。
  一般には水を濾し終わったら、簀のうえに紙層を載せたたまま、紙床にうつ伏せにして、静かにめくるように
簀だけをはがし、漉き上げた湿紙を紙床に重ねて行く。


  泰平紙

  岩石唐紙の皺紋をさらに工夫改良して、皺紋をより目立たせたものが、泰平紙(太平紙)である。漉くときの
流し込みの時に、四隅に簀よりはみ出すように漉きあげ、水を濾し終わった湿紙の時に、左右に引っ張ったり、
前後に縮めたりを繰り返して、皺紋を大きくつくり乾燥させる。
 乾燥すると岩石唐紙の皺紋よりもくっきりとしたエンボス上の凹凸ができる。
  『楽水紙製造起源及び沿革』によると、

  「天保十四年(1843)初めてこれを製し、将軍家斉公の上覧を  かたじ  けなふせしおり、未だ紙名なきを
以て、泰平の御代にできたればとて、
    泰平紙とこそ下名せられたれ」

とある。この泰平紙は、皺紋だけでなく染色したり、透かし文様を入れて
ふすま障子用に用いられた。
  泰平紙の製法について『明治十年内国勧業博覧会出品解説』によると、

  「漉框(漉桁)に紙料を注ぎ入れてから、竜・鳥・草花などの画紋を描き、引き上げて  水分がやや滴下し
たときに、簀を六〜七回振り動かして皺紋をつくる。」

とある。


  楽水紙

  皺紋を特徴とする泰平紙に対して、海藻を漉き込んで独特の紋様をつけた、ふすま障子一枚の大きさのいわゆ
る三六判の紙を楽水紙という。
  泰平紙を創製したのは、玉川堂田村家二代目の文平であったが、楽水紙もやはり田村家の創製であった。
  玉川堂五代目田村綱造の『楽水紙製造起源及び沿革』によると、

  「和製唐紙の原料及び労力の多きに比し、支邦製唐紙の安価なると、西洋紙の使途ます  ます多きに圧され
、この製唐紙業の永く継続し得べからざるより、ここに明治初年大  いに意匠工夫を凝らしし結果、この楽 

 水紙といふ紙を製することを案出し、今は  玉川も名のみにて、鳥が鳴く東の京の北の端なる水鳥の巣鴨の
村に一つの製紙場を構  え、日々この紙を漉くことをもて専業とするに至れり。もっとも此の紙は全く余が考
  案せしものにはあらず、その源は先代(田村佐吉)に萌し、余がこれを大成せしもの  なれば、先代号を
楽水といへるより、これをそのまま取りて楽水紙と名ずける。」

とある。玉川堂五代目田村綱造が漉いた楽水紙は、縦六尺二寸、横三尺二寸の大判であった。漉桁の枠に紐をつ
け滑車で操作しやすくし、簀には紗を敷き、粘剤のノリウツギを混和して、流し込みから留め漉き風の流し漉
きに改良している。さらに染色し、紋様を木版摺りすることも加え、ふすま紙として高い評価を得て需要が急増
した。
  三椏を主原料とした楽水紙にたいして、大阪では再生紙を原料とする大衆向けの楽水紙が漉かれるようになり
、新楽水紙と称された。
  やがて、新楽水紙が東京の本楽水紙を圧迫する情勢となった。やがて東京でも大正二年には十軒を数える業者
が生まれている。
  大正十二年の関東大震災で、復興需要の急増と、木版摺りの版木が焼失したのに伴い、新楽水紙が主流とな
った。
  昭和十二年(1934)には、東京楽水紙工業組合が組織され、昭和十五年
には組合員三十五名、年産四五○万枚に達していた。
  太平洋戦争後には、越前鳥の子や輪転機による多色刷りのふすま紙に押されて衰滅した。


  (五) 襖の文化


  襖の下貼り

  から紙は、紋様を刷り込んだ襖障子の上張り(表張り)のことで、襖障子には多くの下貼りが行われる。  
 下貼りの工程は、骨縛り、蓑貼り、べた貼り、袋貼り(浮貼り)、清貼りなどの工程があり、種々の和紙を幾重
にも丁寧に張り重ねてできあがる。
 「骨縛り」は、組子に最初に張り付けるもので、組子骨に糊を付けて、手漉き和紙・茶チリ・桑チリなどの繊維
の強い和紙を、障子のように貼る。 霧吹きをすると和紙の強い繊維が収縮して、組子骨を締め付けてガタがこな
いようにする重要な役目を担っている。
 「打ち付け貼り」は、骨縛り押し貼りともいわれ、骨縛りをより強固にするための重ね張りとともに、骨が透け
ないようにする透き止めの効果もある。
  「蓑貼り」は、框に糊付けしずらしながら蓑のように重ねて貼る。これを二回〜四回繰り返す。これは重要な
工程で、組子骨の筋の透け防止と襖建具の裄 をだす。さらに、蓑貼りが作り出す空気の層は、断熱保温効果と吸
音防音効果も果たしている。
  「べた貼り」は、紙の全面に糊をつけて貼り、蓑貼りの押さえの役割を持つ。
  「袋貼り」は、半紙または薄手の手漉き和紙や茶チリなどの紙の周囲だけに、細く糊を付けて袋状に貼る。袋
状に浮かして貼るので「浮け貼り」ともいい、奥行きのある風合いを完成させる。
  「清貼り」は、紙の全面に薄い糊を付けて張る。これは上張りの紙の材質や裏と表に材質の異なる表面紙を貼
るときなどに限って使用する。
 これらの幾重にも和紙を張り重ねていく工程は、組子の障子の格子を紙の引きで固定し、木材のひずみを防止
するとともに、裄のある(ふくらみのある)風合いをもたせて仕上げるためのものである。骨縛りは引きの強い
反故紙を用い、中期工程には湊紙 (和泉の湊村で漉かれた漉き返しの紙で、薄墨または鼠色の紙)や茶塵紙(
楮の黒皮のくずから漉いた紙や、故紙を再生したしたもので単に塵紙ともいう)を用い、清貼の工程には粘りの
強い生漉きの美濃紙・細川紙・石州半紙などが用いられた。              板戸や明かり障子は
建具職人によって作られるが、襖は一般に建具とは言わず、「ふすま」と言い、経師や表具師によって、幾重に
も紙を張り重ねることによって「ふすま」となって行く。
 紙質を変え、張りの仕口をかえて、紙を張り重ねていくと、ふすまは丈夫になるとともに、吸音効果や断熱効
果そして調湿効果などとともに、ぴんと張りつめたなかにも、ふっくらとした柔らかい味わいで、落ち着いた和風
の雰囲気を醸し出す。         


  ふすまの語源

  「ふすま」の語源は諸説ある。
  『和漢三才図絵』では、帳台すなわち主人の寝間(臥す間)に建て巡らしたた衝立障子から発展したもので
「寝間障子」としている。
  『玉勝間』『和訓栞』などでは、「衾障子」としている。つまり寝具のことを衾(ふすま)といい、衾には軟
錦で広い縁取りをされていた。
 寝所に巡らせた衝立障子にも軟錦で縁取りをして、衾に似ていることから「衾 所の衾障子」と呼ばれたとし
ている。
  いずれにしても、平安時代はたんに「障子」とよび、のちに「からかみ障子」と呼ばれるようになり、「襖障
子」と表記されるようになるのは室町期からである。
  襖障子の文字の初出は、文安元年(1444)に成った漢和辞書、『下学集』にみられる。
  『大乗院寺社雑事記』の文明三年(1471)十二月十九日の条に、 
 「百五十文唐紙手間代」、
 十二月二十三日の条に
 「百八十九文襖紙」
とあり、唐紙と襖紙を区別している。さらに、
  「杉原紙百八十九文 襖紙三帖」
とあり、襖紙に杉原紙を使用したことが記されている。
  唐紙障子は紋様のある「から紙」を張ったもの、襖障子は純白の杉原紙、越前鳥の子紙、間似合紙などを張っ
たものを指していた。また白地に絵師による絵付けや文字を書くことも多かった。
  純白の紙を張ったのは、本来「ふすま」には木綿で織られた白妙や白絹が張られていたものの代用からきてい
る。
 『安斎随筆』には

 「袍の裏のあるのを襖といい、障子の裏も表もはるので襖という」

とある。                              
 袍とは、外衣・上着のことで、「うえのきぬ」といい、衣冠束帯の時に着た上着のことで、裏地を張ったもの
を襖といった。いろいろの模様をつけ、位階によって色が異なった。表も裏も張るという意味で襖障子という字
が当てられ今日でも襖が使われている。

  ふすまは寝るときの衾(寝具)を語源としており、衣偏に奥で「襖」と書くようになったともいう。衣は身体
を包むものであり、奥を包むという意味もある。
  「奥」は入り口から深く入ったところで、人に見せずに大切にする所というのが原義で、家の中でも最も神聖
なところを指し、奥は臥すところすなわち寝所を意味している。
  「ふすま」の「ふす」が「伏す」「臥す」に由来しており、臥す所の「床」
は「とこ」とも呼ばれ、寝床とも言われた。
  当時の帳台は、床の上に一段高く作られている浜床に畳を敷き、四隅に柱を立て四方には帷(布を垂れ下げて
空間を間仕切る)をめぐらした帷帳の寝床であった。これが後に「たれぎぬ」から衾障子で囲った障子帷を用い
るようになった。帳とは、「張り巡らすもの」の意で、帳も「とばり」とも読む。「とばり」は戸張りで、内と
外との堺に張り、空間の結界を現している。


  襖としつらい

  平安時代の寝殿造りの内部は、丸柱が立ち並ぶだけの、構造的な間仕切りが無い、板敷きの床の大広間形式
であった。
  開放的な空間を、住む人の日常生活の都合や、季節の変化や年中行事の儀礼や接客饗宴などに応じて、几帳
や屏風や障子などによつて内部を仕切り、帳台や畳その他の調度を置いて、その都度適切な空間演出を行った。
  このような室内の設営を「しつらい」と呼んだ。
 「しつらい」には「室礼」とか「舗設」などの漢字を当てている。
  やまと言葉としての「しつらい」の「し」は「為(し)」で「する」という意であり、「つらい」は「つれ
あう」や「つりあう」の意で、その時々の情況に応じて「連れ合う」あるいは「釣り合う」ように「する」こ
とだという。
  その時々の季節や住む人の格式や生活様式、行事としての儀式の状況などに調和し融和するように、さまざ
まな障屏具で「しつらえ」た。
  「しつらえ」のための主要な間仕切りであった障子が、今日の「ふすま」の原型をなしている。
  平安時代の寝殿造りの「しつらい」の間仕切りとしては、まず建物の外部と内部との隔てる蔀戸、蔀戸に沿
ってかける御簾がある。御簾には外側にかける覆い御簾と内側にかける内簾がある。
  冬には御簾の内側に重ねて壁代という帷をかける。室内には、いわば帷で作った衝立ともいえる几帳を置い
たり、絹や布地の引き幕に近い間仕切りの引帷や軟障 で小空間を間仕切った。
  さらには屏風や衝立障子、衝立障子の発展的形態として、木格子の表裏に絹や布地、後に和紙を張り黒塗り
の縁をつけた衾障子などを用いた。
  なかでも、「しつらい」の間仕切り具として最も重要な「障子」は、平安時代にさまざまな形式の障子が考
案されている。
  仕上げ材料によって絹障子、布障子、紙障子、板障子、杉障子、そして副障子(押障子ともいい壁として用
いた)や平安末期には明かり障子などが工夫されている。
  木の組子格子の表裏に絹や和紙を張り重ねた障子が衾障子あるいは襖障子と呼ばれた。板障子も板を下地と
して紙や布を張ったもので、柱間にはめ込んで壁として用いた副障子である。
  間仕切り建具としての発展的形態から見ると、「障子」は、衝立の原型といえる台脚の上に立てる衝立障子
が原型である。絹障子、紙障子、板障子なども台脚の上に乗せる衝立障子であった。
 衝立障子の中に、四角に窓を開け簀を張りさらに御簾をかけて、内側から向こう側が見えるようにした通障
子(透障子)なども工夫されている。
「しつらい」として時々の情況に調和させるように「しつらえる」ためには可動形態が便利である。
 マルチパーパス空間としての寝殿造りは、便所や湯殿さえ固定されていなかったという。
  衝立障子から、柱間に一本の溝を設けてはめ込む副障子が考案された。副障子は建て込み式の障子で、「しつ
らえ」に応じて建て込んだり、取り外したりできる可動式の壁であった。
  この副障子を、鴨居と敷居という二本の溝を設けて、引き違いに動くように工夫したのが鳥居障子(鴨居障
子)で、今日の「ふすま」の原型となったもので、衾障子・襖障子と呼ばれた。
  このような内部空間を間仕切る多様な障子の発明は、寝殿造りの住宅の公と私の明確な分離に基づく、住ま
い方の変化をもたらした重大な転機となった。特定の機能や目的を備えた小空間への分離独立への展開は、「
室」という概念をもたらした。
  平安末期に明かり障子が誕生しているが、その原型は帳台と呼ばれる寝所の明かり取りの天井に由来してい
ると思われる。
  帳台は、寝殿のほぼ中央に設けられた寝所で、畳を敷いて一段高くして、四本の柱を立て、帷や御簾を立て
回した。後に衾障子で囲われるようになった。
 帳台の柱には天井も設けられている。寝所とは言っても、昼間は居間として使用するため、組子格子の片面
に光を透かす「すずし」(生絹)を張った天井を設けて、天井の明かり取りとした。
  そして、この帳台の格子天井の「明かり取り」が後の明かり障子の原型であり、「天井」そのものが、後の
書院造りで目的や機能別に小空間に間仕切りされた「室」に、杉板天井が設けられる原型ともなっている。


  襖と白

  古来から日本人は、「白」という色を、汚れのない清らかなもの清浄なもの、神聖なものとして特に大切に
してきた。白に無限の可能性を感じ、美しさの原点でもあった。
  古代から麻や楮の繊維から衣料を作ったが、特に楮の皮の繊維は「木綿(ゆふ)」と呼ばれ、剥いだ樹皮の
繊維を蒸した後、水にさらして糸状に精製したものである。
 この木綿で織った布を白く晒したものを白妙と呼び、日本人の白さに対する感覚の原点と言える。 
  清らかな冷たい水の中を幾度もくぐらせて、何度もさらすことによって、身を浄めるようにして得られた、
美しく白い繊維の木綿の白さに神聖なものとしての感情が移入されている。
  木綿は「ぬさ」とも呼ばれ、幣または幣帛という漢字が当てられている。
  そして「ぬさ」は、『広辞苑』によると

 「神に祈るためにささげる物、また祓いにだすもの。麻・木綿・帛  または紙などでつくる。みてぐら。に
ぎて。」

とある。木綿は、神を招来するための祭具であり、神の座の飾りでもあった。神前で舞う巫女の持つ榊の小枝
や、神に捧げる若竹や篠などを用いた斎串に付けたり、しめ縄に垂(四手)として飾り、神聖な領域を示す結
界の象徴として用いてきた。     
  木綿は楮の皮の繊維からつくり、紙もまた楮の繊維からつくる。
  和紙が普及する奈良時代には、木綿に代わって紙が幣の座を占め、どこの神社も紙の幣帛で飾られるように
なった。

  和紙の普及に伴い、奈良時代には木格子の両面に和紙を張った衝立障子が用いられ、平安時代には衾障子が
用いられるようになっている。
  障子は古来間仕切りの総称として用いられたが、「障」はさえぎる、へだてるの意がある。障子は神聖な「
奥」への視界をさえぎり、さらには物の怪や邪霊を防ぎ、風や冷気をさえぎる。
  衝立障子や屏風、帷そして衾障子には、木綿で織られた白妙や麻・絹そして後には紙を張るようになつたが
、神聖な場所としての結界として、聖域を邪霊から守り防ぐ意味から、清浄で神聖な「白」が張られた。
 そして、寝具として身を包む衾も清らかな白が用いられた。
  『類聚雑要抄』の永久三年(1115)藤原忠実の東三条殿の神殿しつらえ図面によると、すべての障子には絵
画も唐紙紋様もない「地・白」と記されている。随身所のしつらえ立面図などには、すでに障子の表面に「襖
」という文字が記され、「襖類何レモ白」と記されている。
  襖に白鳥の子を張るという伝統は今日にも引き継がれており、格式の高い料亭や旅館にも使われており、皇
居の和室の襖も白の鳥の子が張られているという。
  古代以来の日本人の白に対する神聖性とは別に、仏教伝来と共に対局の金色燦然とした「荘厳」といわれる
飾りの聖性を獲得していった。 
  仏教における祭壇で、黄金の光背を放つ金色燦然とした金銅仏が安置され、きらびやかに彩られた欄間など
の装飾によつて、空間全体が極楽浄土を暗示している。
  古代の神道の清浄な「白」に対す聖性に対して、光り輝く黄金色の新しい聖性は、古代の日本人に大きな価
値観の変化をもたらした。

  仏教の影響は、神道の拭い清める白の神聖性と、白の装飾性から、仏像伽藍のような、より立派により華や
かに装飾するという加飾性を大きくしていった。
  襖の原型である衝立障子や屏風そして押しつけ壁にも、唐絵が描かれるようになり、九世紀中頃には大和絵
が描かれるようになった。
  鎌倉・室町時代に寝殿造りから書院造りへと移行し、江戸時代に書院造りは武士階級の住宅様式として完成
していった。
  初期の書院造りの特徴は、接客対面の儀式の場としての書院を、権力の象徴として、襖障子と張り付け壁を
連続させて、その全面を金地極彩色の金碧障壁画で飾り立てた。
  織田信長の安土城は、殿中が金箔で光り輝いていたという。
  

  (六)腰張り壁紙


  壁面の少ない和風建築

   壁に壁紙を貼るということは、中国では早くから行われており「貼落」という手書きの唐絵を描いた
壁紙を貼った。
 ヨーロッパでは早くから布や皮革で装飾した壁飾りのタペストリーを用い、製紙が伝わり普及する十
五世紀には、早くも壁紙が作られている。
  日本には装飾として壁に壁紙を貼るということは殆ど行われていない。日本建築は、基本的に外部の
自然に対して解放系の空間を形成しており、ヨーロッパや中国の、自然や外敵から身を守る石や煉瓦作
りの、堅固な住宅思想と異なる。
  日本の気候は、夏の高温多湿が特徴の一つである。古代以来蒸し暑い夏をいかに過ごすかに悩み、
住まいにさまざまの工夫をこらしてきた。
  古代から平安時代に至る建築様式は、寝殿造りで大広間形式で、壁面での間仕切り空間が少なく、
さまざまな可動式の間仕切り障子で空間を仕切った。むろん外部との仕切に、土壁を塗り漆喰を塗ったが、
蔀戸を釣ったり、唐戸を設けて開口部を多くとり、塗籠めの壁面部分が少なかった。
  日本では、屏風や衝立、襖障子などに華麗な装飾が施され、壁紙が使用される事は少なかった。


  茶室と腰張紙

  壁紙はもともと壁面の装飾とともに、それを保護する目的もある。
  日本では本格的な壁紙は発展しなかったが、壁面の保護のために、中世から腰張紙が用いられている。
壁面の下部は損傷しやすいために、壁面の下部だけに紙を張って補強するのが腰張紙で、特に茶の湯の普及
に伴って茶室に好んで用いられた。
  茶室には美濃紙や杉原紙を白地のまま使う他、文字を書いた反故紙も用いられた。京都建仁寺の塔頭正
法院に茶人の織田有楽斎の建てた如庵には、古い暦を張っており暦停とも呼ばれた。  
  正保二年(1645)の『毛吹草』には、腰張紙を山城と和泉の産としている。ともに漉き返しの紙で、
和泉産のものは湊紙と呼ばれた。
  貞享元年(1648)の『擁州府誌』(擁州とは山城国の別称)には、湊紙はもともと泉州湊浜(堺)でつ
くったと述べており、正徳三年(1713)の『和漢三才図絵』には、宿紙に「こしはりかみ」と仮名をふり、
「湊紙」と割注をしたあと、後醍醐天皇の御代に京都の二条から川端道仙が泉州湊村に来て漉きだした、
とその由来を述べている。
  このように漉き返しの宿紙が腰張紙として需要が増えると、京都・堺のほか摂津の山口(西宮)でも
漉かれるようになっている。
  『新選紙鑑』には、腰張り用の石目紙・木目紙は播磨産とし、また「一説によると伊予より出づ」と
している。
  このほか腰張紙として、松葉紙・青土佐紙などの名もある。
  松葉紙は、松葉の煮汁や松葉の粉末を漉き込んで紙で、『貿易備考』によると、楮の黒皮に若松の葉の
煮汁、あるいは牡蠣殻の灰を混ぜて漉いている。摂津の名塩(西宮)のほか因幡の鳥取、筑後の広瀬、
出羽の山形などで産した。松葉紙は別称松皮紙・千歳紙・千年紙・千代紙ともいった。
  青土佐紙は、土佐の色紙で腰張紙として用いられ、京都や大阪でも模造されるほどに評価が高かった。
  さらに雲文様のほか絵入りや更紗・友禅模様のものや水玉紙なども作られている。


  紋様付きの壁紙

  腰張紙は、当初は壁の損傷を防ぐ保護を目的として使用され、淡墨色の
湊紙が主流であったが、徐々に装飾的効果を目指し始めて、染色加工紙や文様を施した壁紙が使用され
ている。
  明治十年の『諸国紙名録』の「東京製襖紙類」のなかに、壁張紙がある。
  これは一坪二四枚張りで、茶色・鼠色・浅黄色・柿色・藍鼠色そのほか
吹き砂子のものがあった。
  腰張紙が、壁面の保護紙の用途から、室内の装飾用に用いられるようになると、から紙も腰張紙とし
て多用されるようになった。特に利久紙は好んで壁紙として用いられた。利久紙(利久摺り)について
はから紙の技法
の項で詳しく述べた。


   (七)擬革紙と壁紙


  擬革紙と十文字紙

  ヨーロッパの壁紙を模倣した金唐革壁紙は、明治初期に試みられている。
  金唐革は江戸中期の長崎オランダ商館からもたらされ、これを和紙を加工して擬革紙を作り、煙草入
れなどに利用されていた。
  擬革紙は、貞享元年(1684)に伊勢の三島屋こと堀木忠次郎が考案したもので、美濃の奉書紙の丈長
紙(大判の紙)に、荏油を含浸させ、藁火でいぶし、木版などで凸紋様を施したものである。これを松
坂の壺屋こと池辺清兵衛が煙草入れに加工して、伊勢参りのみやげとして売り出し著名となった。
  水戸では、十文字紙(漉き簀を十文字にゆすり楮の繊維を縦横によく絡み合わせた強靱な紙で、合羽
や紙衣などに用いられていた。)を用いてパーチメント(羊皮紙)を思わせる羊羹紙をつくった。これ
にヒントを得て
天保二年に江戸の竹屋こと山本清蔵が、黒聖多黙革紙を考案した。擬革紙表面に皺紋加工があり、竹屋
絞りともいった。
  従来の擬革紙は小判であったが、明治四年(1871)に竹屋は一丈二尺(三・六メートル)平方の大判
十文字紙をつくるのに成功している。竹屋はこれを用いて敷物用の擬氈紙を発売した。


  金唐革壁紙

 明治政府の鉄道雇技師として来朝していた英国人オルドリッチが、油紙商竹屋の製品をみて、金唐革
壁紙の製造を助言し、竹屋はその助言で明治五年金唐革壁紙をつくることに成功した。竹屋の金唐革壁
紙は、明治六年のウィーン万国博覧会に出品して好評を得ている。これを機にイギリスなどへ壁紙とし
て輸出している。 
  竹屋のほかにも、擬革紙の壁紙をつくることを試みるようになったが、油臭い欠点があり、海外の信
用を失う事を恐れて、大蔵省印刷局は明治十三年油を全く使わない金唐革壁紙を製造することに成功した。
  この油を全く使わない金唐革壁紙が好評で、横浜の貿易商社と契約して、欧米に輸出されるとともに国
内の皇居・箱根離宮・国会議事堂などの壁装に用いられた。
  明治二十三年官業の民営移管政策に基づき、大蔵省印刷局の壁紙製造設備は山路良三に払い下げられた。
  山路壁紙製造所は、最高の品質の壁紙をつくり、その金唐革壁紙はイギリスやオランダの王宮の内装に
も用いられている。
  東京の壁紙製造所は、明治三十一年には十五工場を数えるほどに盛んとなり、輸出額は十八万四千円を
記録したが、大正期には衰退して山路壁紙製造所だけとなり、さらに昭和十二年にはここも日本加工製紙
株式会社に吸収された。日本加工製紙では、昭和二十年に製造を中止し、昭和三十一年に復活して赤羽工
場内に、日本美術壁紙工業を設けたが、昭和三十七年に閉鎖して、金唐革壁紙の産業としての命脈は尽き
た。
  金唐革壁紙の製造方法は片倉健四郎著『加工紙製造方法』によると、

  「原紙は手漉き和紙にして、厚さは概ね米秤量一○○〜一五○グラムのものなり。こ   れを先ず希
薄膠液を以て湿潤し、つぎに彫刻ロールの上にその湿潤紙を置き、左右両  側より二人の工者が長柄の
刷毛を以て軽打しつゝ浮凸模様を現す。この際時々ロール  は手にて転ばして連続模様となし、また同時
に枚用原紙を糊にて継合し、十二ヤード  (十一メートル)となす。彫刻模様の原板には、前の如きロール
のほか平版のものも  あり、いずれも桜材を用ゆ。上記の如く型出しを行ひたる紙は、これを機上に平坦に
  拡げて空気乾燥し、次ぎに品質階級によりて、漆・ペンキまたは鉱物性粉末塗料(糊  剤を含有せる)
を以て塗布し、再び乾燥す。これ本邦独特の方法にして外国の方法と  異なるところなり。斯く塗料を以て
塗固めたる紙は、さらにその上に模様の型紙を置  きて彩色し、あるいは金・銀・箔錫を散布し、最後に漆
または他の耐水剤(品質によ  り)を塗布して仕上ぐべし。」

とある。金唐革壁紙は、和紙のねばり強さを活かして、荏油や柿渋を引いて耐水性を与え、揉み加工して柔ら
かくするほか、から紙紋様とは異質の浮凸加工(エンボス加工)したもので、さらに金属箔による装飾と漆・
顔料の塗布というように、和紙の加工技法を総合した、和紙加工の頂点に位置する製品であった。
  近年東京の目白で上田尚がその伝統を守っており、最高級壁紙のほか本の表紙の装丁用紙などに用いられて
いる。

・・・・・・以上・・・・・・


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